2025/01/17

トゥール・ポワティエ間の戦い(2)

戦闘

宮宰カール率いるフランク王国連合軍は、騎兵の多いガーフィキーの軍隊に対し場所を選んだ。イスラム側の多くは騎兵であり機動力を発揮できないよう、丘や樹木などの地形とファランクスを上手く活用し防衛体制と整えた。歩兵と騎兵の戦闘ながら決着はつかず、7日間の小競り合いが続いた。イスラム側はフランク王国連合軍の主体が歩兵であることから、戦闘を楽観視していた。

 

トゥールとポワティエの間のクラン川と、ヴィエンヌ川の合流点で2つの軍が合流したと想定しており、両軍の兵士の数は不明。ラテン語資料である『754年のモサラベ年代記』においては、詳細な人数においては言及されていない。両陣営の動員数は当時の兵站を鑑みるに、フランク王国連合軍が15,000 - 20,000人。ガーフィキー率いるアル=アンダルス遠征軍が20,000 - 25,000人とされている。

 

歴史家のポール・K・デイヴィスは、1999年にイスラム教徒の軍隊を約80,000人、フランク王国連合軍を約30,000人と推定した。一方でエドワード・J・シェーンフェルト(Edward J. Schoenfeld)は、ウマイヤ朝の数が60,000-400,000とフランク王国連合軍が75,000の範囲であったという古い見積もりを拒否した。戦地の広さと、当時の補給事情を鑑みるに50,000人を超える兵数は運用できないと指摘した。テリー・L・ゴア(Terry L. Gore)は、フランク王国連合軍15,000 - 20,000人、イスラム教徒の軍隊を20,000 - 25,000人と見積もった。

 

最終日において、フランク軍がイスラム軍の略奪品の荷車などを襲撃した。人種・民族・宗教入り乱れるガーフィキーの軍では、戦利品の防衛と攻撃とで指揮系統が乱れた(当時の略奪品は、そのまま兵士たちの給料でもあった。また、イスラム側は家族を同伴していたことも理由である)、ガーフィキーは混乱した自軍をまとめようとして、前に出たところを矢で射られ死亡した。ガーフィキーの死亡は『754年のモサラベ年代記』でも言及されている。

 

イスラム側の記録によると、ガーフィキーの死後に有力者たちで会議を行ったが意見が纏まることは無く、夜の内に撤退したという。(ガーフィキーはイスラム側では、民族や文化の垣根を越えた優秀な指導者であったと評価されている。)

 

フランク王国連合軍は、後日の攻撃に備えて直ぐには武装解除しなかった。

 

影響

このフランク人の勝利は、ムハンマドの死から100年後にあたり、しばらくの間、ピレネー山脈を超えてフランス王国領内にアラブ人が侵入するという深刻な脅威を終わらせた。この勝利により、宮宰カールは「マルテル」の称号を得て「カール・マルテル」と呼ばれるようになる。そしてこの戦いによって、フランク王国内における地位を確固たるものとした。アウストラシアの宮宰出身であったカール・マルテルの息子小ピピンは教皇を味方につけ、メロヴィング朝を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。小ピピンは息子に王位の世襲を行わせたため、小ピピンの息子であるカールが王位についた。これが有名なシャルルマーニュことカール大帝(800年にフランク・ローマ皇帝として戴冠。)である。

 

ヨーロッパにおいては、キリスト教圏の防衛と中世の始まりから評価が高い戦いとなっている。キリスト教圏の防衛という一事と、カール・マルテルがフランク王国内で絶対的な地位を確立し、それが後のシャルルマーニュに繋がってヨーロッパの礎になったことによる評価が大きい。また、エドワード・ギボンも自著『ローマ帝国衰亡史』の中で高く評価している。

 

一方、イスラム側ではそこまで大きい評価はされていない。イスラム圏からすれば小さい小競り合いという印象の評価である。事実上、アル=アンダルスとアキテーヌ公の問題にカール・マルテルが介入したことから「領主の小競り合い」、あるいは「略奪による富が目的」だったなどヨーロッパ側の評価とは著しく異なる。

 

備考

SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世の暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類にとって決定的な不幸の一つ」と評している。

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