カリンニコフは、ロシアのオリョーリ県オリョーリ出身、大作家ツルゲーネフと同郷である。貧しく倹しい警官の家庭に生まれる。後にやはり作曲家となった弟ヴィクトルとともに、少年時代から楽才を顕し、14歳で地元の聖歌隊の指揮者を務めるまでになる。
その後モスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに退学させられる。奨学金を得てモスクワ楽友協会付属学校でファゴットを学ぶかたわら、アレクサンドル・イリインスキーに作曲を師事。劇場の楽団でファゴットやティンパニ、ヴァイオリンを演奏するかたわら、写譜家としても働いて生計を立てた。この時期に、親友のクルグリノフと出会った。
1892年にチャイコフスキーに認められ、マールイ劇場の指揮者に推薦され、それから同年にモスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務める。以前からの過労が祟って健康が悪化し、結核に罹患したためやむなく劇場での活動を断念し、温暖な気候のもとでの転地療養を余儀なくされ、クリミア南部に向かいウラル山脈の山荘に転居した。生涯の終わりをヤルタで過ごした。2つの交響曲と、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイの《皇帝ボリス》のための劇付随音楽は、同地で作曲されている。
セルゲイ・ラフマニノフが楽譜出版社ユルゲンソンにかけ合ったおかげで、3つの歌曲が120ルーブルで買い取られ、その後《交響曲第2番》も売れた。循環形式を用いた《交響曲第1番》は、作曲者の存命中にモスクワのほかベルリンやウィーン、パリでも演奏されたが、病が悪化していたため1897年の初演にも立ち会うことも叶わずに終わる。
カリンニコフは遂に稼ぎが無いまま、交響曲第1番の出版と35歳の誕生日を目前に早世した。ユルゲンソン社主ピョートルは、後にカリンニコフが受け取るべき報酬を水増しして、未亡人に支払った。遺された弟ヴィクトルは、奉神礼音楽や合唱曲の作曲家となり、楽友協会付属学校の教壇に立った。
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