2007/01/31

ロッシーニ オペラ『タンクレーディ(Tancredi)』act1

 


●第1

舞台は1005年のシラクサ、アルジーリオの宮殿の回廊。騎士たちとその従者たちが集い、党派抗争の終結と友情の復活を祝い祖国への忠誠を誓う(合唱「平和、名誉、忠誠、愛」)

シラクサ国王アルジリオは、サラセンとの戦いに備えるために政敵オルバッツァーノと手を結ぶことにした。その和解の証しに、娘のアメナイーデをオルバッツァーノに嫁がせることを約束した。これは彼女に思いを寄せる、敵方サラセンの司令官ソラミールに対する挑戦行為でもあった。というのは、ビザンツ帝国においてアメナイーデに求婚していたソラミールは、今や司令官となっていた。ソラミールは、彼女を得ることと引き換えに和平を提案していたのであった。

亡命者タンクレディは、ビザンツ帝国を秘かに抜け出していた。その逃亡ゆえに彼は死刑宣告され、タンクレディ一族の財産はオルバッツァーノに褒賞として与えられることが決められてしまった。

 

『タンクレーディ』(伊: Tancredi)は、ジョアキーノ・ロッシーニが18131月頃に作曲し、同年26日にヴェネツィア・フェニーチェ劇場で初演された、初の本格的オペラ・セリアである。このオペラの成功により、ロッシーニは弱冠21歳にしてイタリア中で名声を得ることとなった。台本は、ヴォルテールの悲劇「タンクレード」を元にガエターノ・ロッシが執筆した。前年、『試金石』」で初めてオペラ・ブッファで成功を収めたロッシーニは、兵役を免除されヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場の委嘱を受け、新たにオペラ・セリアを書くこととなった。

作曲までの経過は、不明な点も多い。しかし主人公が死ぬこととなっている原作と異なり、劇場ではハッピーエンドで終わらせなければいけないという慣習に従ったことに疑問を感じ、フェラーラでの上演の際は原作どおりに悲劇版として発表している。

 

「タンクレーディ」とは、ガリラヤ公(またはティベリアス公)タンクレード(タンクレッドとも、Tancred, イタリア語: Tancredi, フランス語: Tancrède1072年生、1076年生という説もある - 1112125日または1212日没)のことで、第1回十字軍における重要人物のひとりである。十字軍の遠征に参加した南イタリアのノルマン人諸侯のひとりで、後にはアンティオキア公国の摂政やガリラヤ公国の公にもなり、レバントに成立した十字軍国家の初期の重要人物となった。

 

登場人物

    アルジーリオ(シラクサの王でアメナイーデの父):テノール

    タンクレーディ(前王の息子):メゾソプラノ

    オルバッツァーノ(アルジーリオと対立する貴族):バス

    アメナイーデ(アルジーリオの娘):ソプラノ

    イザウーラ(アメナイーデの友人):メゾソプラノ

    ロッジェーロ(タンクレーディの腹心):メゾソプラノ

     

曲の構成

1

    1アルジーリオの宮殿の回廊

    2海岸を望む宮廷の庭

    3城壁の近くの広場

2

    1アルジーリオの城内の回廊

    2牢獄

    3シラクサの大広場 ヴェネツィア版

    4山間の崖下

    フェラーラ版第4戦場

 

1812年、オペラ『試金石』が成功し、弱冠20歳にして早くも人気作曲家の仲間入りをしたロッシーニ。その後のロッシーニの人生は、まさに「破天荒」を絵に描いたような生き様である。

 

4年後、絶対の自信作だった『セビリャの理髪師』のローマ初演は、これまでの成功が嘘のような大失敗に終わった。原因は、先に同じ題材をオペラにした作曲家パイジェルロの一派が妨害工作を行い、開演からヤジや口笛で始まり大混乱になったためであった。初演の大失敗は音楽史でも枚挙にいとまがなく、どの作曲家も大いに落ち込むパターンがお決まりで、中にはそれが原因でノイローゼとなったり、死に至ったビゼーの例もあるくらいだが、根っから豪胆なロッシーニはまったく違っていた。

 

大失敗の上演後、歌手たちはロッシーニがさぞかし落ち込んでいると考え慰めに行くと、彼はすでにホテルで天下泰平の大鼾をかいて熟睡していた!

「最高傑作であることは間違いないし、大衆はいつかわかるだろう」

と、ロッシーニはケロリとして答えたという。

 

その後の作曲家活動は順調で、本来の怠け者の性格から、他人の旋律の無断拝借やオペラ序曲の使い回しなど、作曲に対する姿勢に問題があったものの、32歳でパリのイタリア座の音楽監督に就任し、早々と地位も名声も獲得する。ロッシーニは「早筆」で有名であるとともに、稀代の無精者でもあった。ベッドに寝たまま作曲するのを常としていたロッシーニは、書きかけの五線紙を落とした時には「拾うのが面倒だから」と、新しい紙に書き直していた話は有名である。

2007/01/24

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第4楽章)

 



ベートーヴェンの一番有名な肖像画は、1823年に描かれた物ですが、フェルナンド・ヴァルトミューラーという人が書いた物。


 

弟子のシントラーの記録によると、この肖像画を描いた日、家政婦がベートーベンの大好物「マカロニチーズ」を作ったのですが、それが不味かったために一日中不機嫌で、画家にも八つ当たりしていたと書いています。

 

「老家政婦が、ベートーヴェンの大好物であったマカロニとチーズを黒焦げにした時の怒りの表情」と言われているらしい。不器用なベートーヴェンは、作曲中は他の一切の用事が出来ず、ピアノの上には大量のカビの生えたパンが皿に乗り、ピアノの下では簡易トイレが大爆発していたと言われ、雇ったメイドは片っ端から逃げ出したと言われる。気難しいうえに、気に入らないことがあると家政婦を「ババア」呼ばわりしたり、来客の前で食卓の食べ物を手掴みで投げつけたり、腐った生卵をぶつけたりして家政婦達には相当嫌われていたらしい。いつも、二人は大喧嘩をしていた。食卓に腐った卵を出したといっては卵を投げつけられ、来客中に行儀が悪かったといっては、鍋に入ったスープを浴びせ掛けられ、大変だったらしい。

 

大好きな散歩にも必ず五線譜を持ち歩き、レストランに立ち寄ると何時間でも思索に耽り、あげくに食べもしない食事の料金を払う。部屋が散らかると、そのまま次の部屋へ引っ越し生涯に79回、引っ越しをした。計算すると年1.4回弱のレートとなり、平均滞在時間は約8カ月半。引っ越し後、大事な楽譜が大量に紛失していて大騒ぎをしたが、実は引っ越しの手伝いをした家政婦が食器などを包む梱包材として、楽譜を使っていたことが判明。彼女は、そんな偉大な作曲家だとは知らなかったし、そんなに大事な物だとは知らなかった。

 

自分も必ずしも楽譜通りには演奏しないのに、楽譜通りに弾かない演奏家は激しい非難を浴びせた。朝と言わず夜と言わず、ピアノをガンガン弾きまくるので、隣人から相当迷惑がられていたようでもあったが、基本的に引っ越し魔だった。

 

ある時、ベートーヴェンは風光明媚な郊外の家を借りた。友達が訪ねていくと

「一番景色の良い方向に、窓がないんだよ」

と言うので、不安になった友達が数日後にまた訪ねてみると、部屋には壁土が散乱し、壁にぽっかり空いた穴を前にして、大家とベートーヴェンが大喧嘩をしている最中だった。

2007/01/23

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第3楽章)

 


http://www.yung.jp/index.php

≪何が6つの初期作品と、ラズモフスキーの3作品とを隔てているのか?

 

まず誰でも感じ取ることができるのは、その「ガタイ」の大きさである。ハイドンやモーツァルト、そして初期の6作品が、どこかのサロンで演奏されるに相応しい「ガタイ」であるのに対し、ラズモフスキーはコンサートホールに集まった多くの聴衆の心を揺さぶるに足るだけの「ガタイ」を持っている。さらに、その「ガタイ」の大きさは、作品の規模の大きさ(7番の第1楽章は400小節に達する)だけでなく、作品の構造が限界まで考え抜かれた複雑さと緻密さを持っていること、それを実現するために個々の楽器の表現能力を限界まで求めたことに起因する。

 

その結果として、4つの弦楽器はそれぞれの独自性を主張しながら、響きとしてはそれらの楽器の響きが緻密に重ね合わされることで、この組み合わせ以外では実現できない美しくて広がりのある響きを実現した。ただし、この「響き」はオーディオ装置ではなかなか再現が難しく、特にこのラズモフスキーなどでは時にエキセントリックに響いてしまうが、優れたカルテットの演奏を優れたホールで聞いた場合は、夢のように美しい響きに陶然とさせられるのである。≫

 

ベートーヴェンの性格は矛盾に満ちており、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。生来の情愛の深さも、無遠慮さのため傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。パトロンのリヒノフスキー侯爵には

「侯爵よ。あなたが今あるのは、たまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは、私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」

と書き送っている。

 

1812年、テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。

後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」と、ベートーヴェンを評した。

 

芸術家というのは、一つの道を究めた人ほどその道については誰よりも器用な反面、自分の専門分野以外や日常の事には驚くほど不器用な人が結構多いようだが、ベートーヴェンも例外ではなかったようだ。ベートーヴェンの場合は「不器用」というよりは「音楽以外の事に関しては、極めて無頓着だった」と推察できる。

2007/01/22

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第2楽章)

 


この5年は、弦楽四重奏曲のジャンルにおいてもベートーヴェンを大きく飛躍させました。 ハイドンやモーツァルトの継承者としての姿を明確に刻印していた初期作品とは異なり、ここではその様な足跡を探し出すことさえ困難です。特に、このラズモフスキー四重奏においては、モーツァルトやハイドンが書いた弦楽四重奏曲とは全く異なったジャンルの音楽を聞いているかのような錯覚に陥るほど、相貌の異なった音楽が立ち上がっています。そして、それ故にと言うべきか、これらの作品は初演時においてはベートーヴェンの悪い冗談だとして、笑いがもれるほどに不評だったと伝えられています。

 

ベートーヴェンの実際の容姿については、非常に醜かったと伝えられている。小太りで身長も低く、どす黒い色の顔は天然痘の痕で酷く荒れていた。普段の表情に関しては、有名な肖像画の数々や、デスマスクのほかに生前ライフマスクを作っていたこともあり、どのような表情だったかは、ある程度判明している。ライフマスク製作の際、息が詰まってベートーヴェンが暴れだし、もう一度作り直す羽目になった、というエピソードもある。

また、若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなったため「汚れ熊」が、彼のあだ名となった≫

 

多くの貴族のパトロンを抱え、その娘たちにピアノを教え次々と恋心を抱きながら、総て失恋に終わったというのもあながち、あの狂熱的な性格のせいばかりではなかったようだ。愛情の告白をする都度、弟子に逃げられを繰り返しながら心ならずも生涯独身を通す事になった気の毒なベートーヴェン。あの偉大な楽聖の遺伝子が、僅か一代で途絶えてしまったのは、なんとも惜しまれてならない (-_-) ウーム

2007/01/21

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第1楽章)


ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第7番ヘ長調Op.59-11806年に出版された。

 

ベートーヴェンは、ロシアのウィーン大使だったアンドレイ・ラズモフスキー伯爵から、弦楽四重奏曲の依頼を受けた。そうして作曲された3曲の弦楽四重奏曲は『ラズモフスキー四重奏曲Op.59』として出版された。これはその1曲目に当たるので、ラズモフスキー第1番と呼ばれる。

 

Op.59は、先輩のハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェン自身の初期の弦楽四重奏曲とは一線を隔し、規模、構成、各楽器の表現などが充実した後期の作風の嚆矢を成している。 特に、この第7番は一番規模が大きいものとなっており、全楽章がソナタ形式で書かれている。だが初演当時は上記の点が理解されず、特に第2楽章については「悪い冗談だ」という声まで上がったという。

 

1楽章 ヘ長調。第2ヴァイオリン、ヴィオラの和音に支えられてチェロが第1主題を提示し、それが第1ヴァイオリンへと受け継がれるという、当時としては破格の書法で始まる。展開部ではフガートが用いられ、再現部を経て長大なコーダで締めくくられる。400小節を超える大曲。

 

作品番号186曲の弦楽四重奏曲を完成させた後、このジャンルにおいてベートーヴェンは5年間の沈黙に入った。その5年の間に「ハイリゲンシュタットの遺書」で有名な「危機」を乗り越え、真にベートーベン的な世界を切り拓く「傑作の森」の世界へと踏み入る。交響曲の分野では「エロイカ」を、ピアノソナタでは「ワルトシュタイン」や「アパショナータ」を、ヴァイオリン・ソナタの分野では「クロイツェル」の大作を書き上げた。そして交響曲の4番・5番・6番という、創作活動の中核といえるような作品が生み出されようとする中で「ラズモフスキー四重奏曲」と呼ばれる3つの弦楽四重奏曲が産み落とされた。 

2007/01/15

ジャンプ(フィギュアスケート観戦ガイド)part1

 フィギュアスケートというのは、非常に難しい競技である。大体において採点競技というのは難しいものだが、フィギュアスケートの配点は驚くほど、非常に細かいところまでシステマティックになっているのである。大まかに言って、以下のような感じになるらしい。

シングルのエレメンツ
■ジャンプ
公式に認められているジャンプは六種類あり、着氷は総てRBOのエッジで行う。
LFORBI等の記号の意味・・・L/Rは左右、F/Bは前後、O/Iはエッジがアウトかインかを指す記号で、これら三つを組み合わせた符号で表している。

名称:左足:右足
・トウループ:トウを突く:RBO
・ループ:使わない:RBO
・サルコウ:LBI:使わない
・フリップ:LBI:トウを突く
・ルッツ:LBO:トウを突く
・アクセル:LFO:使わない

ただし逆回転の人は、左右逆になる。回転数の多少はあっても、踏み切りの仕方で、この六種類のどれかが決まる。

つまり解説などでは通常、回転数と合わせてトリプル・アクセルなどと表現するが、踏み切った時点で種類を表す後半部分は分かっているのである。回転数はシングル(1回転)、ダブル(2回転)、トリプル(3回転)、クワド(4回転・クワドラブル)で呼び、アクセルだけが前向きに踏み切る。トウループ、ループ、サルコウは踏み切り動作から回転が始まり、フリップとルッツはトウを突いてから回転が始まる分、難しくなっている(「トウ」とは「トウピック」の略で、ブレードの先にあるギザギザの部分の事・・・フィギュアスケートの靴に特有で、ジャンプやスピンに入る時に使用するためのもの)

フリップとルッツの違いは、エッジがインかアウトかにあるが、これをきちんと跳び分けられている選手は少ない(「エッジ」は、氷に接する刃の部分・・・フィギュアの刃の部分には溝があり、足の内側に倒すことをイン、外側をアウトという)

一応、後ろを向いてすぐに跳べばフリップ、長ければルッツという事になっている。

TV観戦をしていると「トリプルアクセル」や「トリプルトウループ」、或いは「トリプルルッツ」と言った言葉が次々に出て来て、素人目には見ていても区別がつかないが、上記のような違いがあるらしい。

■ジャンプコンビネーション・ジャンプシークエンス
ジャンプで着氷したRBOからそのままトウループ、またはループを跳べばジャンプコンビネーションに、次のジャンプまでにステップが入れば、ジャンプシークエンスになります。すなわちシークエンス(「連続」という意味)は、どんな組合わせでも出来ますが、コンビネーションの2つ目以降はトウループ、またはループしか出来ないわけです。

■スピン
上体の姿勢、軸足(滑っている方の足)、フリーレッグ(滑っていない方の足)の位置で、三つないし四つに大別されます。
 ・キャメルスピン:上体とフリーレッグが水平に一直線になっているもの
・シットスピン:軸足が曲がってしゃがんだ状態のもの
・アプライトスピン:軸足が伸び、上体が立っているもの
・レイバックスピン:アプライトスピンに近く、上体が反っているもの

■ステップシークエンス
スパイラル以外は、単に進むコースで分類されているだけです。勿論、その中身は、技術力により多種多様です。
・サーキュラー・ステップシークエンス:おおよそ円形に回るもの
・ストレートライン・ステップシークエンス:中央または対角線上をおおよそ直線的に進むもの
・サーペンタイン・ステップシークエンス:半円を3つつなげたような大きく蛇行した曲線を描くもの
・スパイラル(螺旋状)、ステップシークエンス:フリーレッグを腰より高く上げるポジションを幾つかとりながら進むもの

と、際限なく続く(以下、略)

次は専門家による、観戦ガイドである(フィギュアスケート資料室から引用)
ジャンプ、スピン、ステップシークエンスがあります。まず、ジャンプ。踏み切り方の違いにより、トウループ、サルコウ、ループ、フリップ、ルッツ、アクセル6種類があり、この順に難度が高くなります。そして、踏み切ってからの回転数(ひねりの数)により、シングル(1回転)トウループ、シングルアクセル、ダブル(2回転)トウループ、ダブルアクセル、トリプル(3回転)トウループ、トリプルアクセル、クワド(4回転)トウループとあります。


それぞれに基礎点が少しずつ差をつけて定めてあり、選手は制限回数内でより高い点を得るため、難しい(基礎点の高い)ジャンプに挑戦するか、逆に中途半端なミスで失点しないよう、出来るもので確実に点を稼ぐかの戦略が問われる。ジャンプの呼称については、例えば「トリプルルッツ」などというのが普通だが、感覚的には「ルッツ跳び3回ひねり」だったりする。

続いてスピン。基本の姿勢はキャメルスピンシットスピンレイバックスピンアプライトスピン4つあり、いずれかの基本姿勢だけで終わる事は必須の要素を除いて少なくなっている。スピンで基礎点を上げる(レベルを上げる)ためには、基本姿勢を難しくした変形ポジションをとったり、基本姿勢から基本姿勢へ変化させたり、軸足を換えたりする事が要求されるからである。ところが、こうしたことは難しく、バランスを崩したり回転速度が落ちたりして、逆にマイナスになる可能性もあることは言うまでもない。