2007/01/23

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第3楽章)

 


http://www.yung.jp/index.php

≪何が6つの初期作品と、ラズモフスキーの3作品とを隔てているのか?

 

まず誰でも感じ取ることができるのは、その「ガタイ」の大きさである。ハイドンやモーツァルト、そして初期の6作品が、どこかのサロンで演奏されるに相応しい「ガタイ」であるのに対し、ラズモフスキーはコンサートホールに集まった多くの聴衆の心を揺さぶるに足るだけの「ガタイ」を持っている。さらに、その「ガタイ」の大きさは、作品の規模の大きさ(7番の第1楽章は400小節に達する)だけでなく、作品の構造が限界まで考え抜かれた複雑さと緻密さを持っていること、それを実現するために個々の楽器の表現能力を限界まで求めたことに起因する。

 

その結果として、4つの弦楽器はそれぞれの独自性を主張しながら、響きとしてはそれらの楽器の響きが緻密に重ね合わされることで、この組み合わせ以外では実現できない美しくて広がりのある響きを実現した。ただし、この「響き」はオーディオ装置ではなかなか再現が難しく、特にこのラズモフスキーなどでは時にエキセントリックに響いてしまうが、優れたカルテットの演奏を優れたホールで聞いた場合は、夢のように美しい響きに陶然とさせられるのである。≫

 

ベートーヴェンの性格は矛盾に満ちており、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になるなど気分の揺れが激しかった。生来の情愛の深さも、無遠慮さのため傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。パトロンのリヒノフスキー侯爵には

「侯爵よ。あなたが今あるのは、たまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは、私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」

と書き送っている。

 

1812年、テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。

後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」と、ベートーヴェンを評した。

 

芸術家というのは、一つの道を究めた人ほどその道については誰よりも器用な反面、自分の専門分野以外や日常の事には驚くほど不器用な人が結構多いようだが、ベートーヴェンも例外ではなかったようだ。ベートーヴェンの場合は「不器用」というよりは「音楽以外の事に関しては、極めて無頓着だった」と推察できる。

2007/01/22

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第2楽章)

 


この5年は、弦楽四重奏曲のジャンルにおいてもベートーヴェンを大きく飛躍させました。 ハイドンやモーツァルトの継承者としての姿を明確に刻印していた初期作品とは異なり、ここではその様な足跡を探し出すことさえ困難です。特に、このラズモフスキー四重奏においては、モーツァルトやハイドンが書いた弦楽四重奏曲とは全く異なったジャンルの音楽を聞いているかのような錯覚に陥るほど、相貌の異なった音楽が立ち上がっています。そして、それ故にと言うべきか、これらの作品は初演時においてはベートーヴェンの悪い冗談だとして、笑いがもれるほどに不評だったと伝えられています。

 

ベートーヴェンの実際の容姿については、非常に醜かったと伝えられている。小太りで身長も低く、どす黒い色の顔は天然痘の痕で酷く荒れていた。普段の表情に関しては、有名な肖像画の数々や、デスマスクのほかに生前ライフマスクを作っていたこともあり、どのような表情だったかは、ある程度判明している。ライフマスク製作の際、息が詰まってベートーヴェンが暴れだし、もう一度作り直す羽目になった、というエピソードもある。

また、若い頃は結構着るものに気を遣っていたが、歳を取ってからは一向に構わなくなったため「汚れ熊」が、彼のあだ名となった≫

 

多くの貴族のパトロンを抱え、その娘たちにピアノを教え次々と恋心を抱きながら、総て失恋に終わったというのもあながち、あの狂熱的な性格のせいばかりではなかったようだ。愛情の告白をする都度、弟子に逃げられを繰り返しながら心ならずも生涯独身を通す事になった気の毒なベートーヴェン。あの偉大な楽聖の遺伝子が、僅か一代で途絶えてしまったのは、なんとも惜しまれてならない (-_-) ウーム

2007/01/21

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番『ラズモフスキー第1番』(第1楽章)


ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第7番ヘ長調Op.59-11806年に出版された。

 

ベートーヴェンは、ロシアのウィーン大使だったアンドレイ・ラズモフスキー伯爵から、弦楽四重奏曲の依頼を受けた。そうして作曲された3曲の弦楽四重奏曲は『ラズモフスキー四重奏曲Op.59』として出版された。これはその1曲目に当たるので、ラズモフスキー第1番と呼ばれる。

 

Op.59は、先輩のハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェン自身の初期の弦楽四重奏曲とは一線を隔し、規模、構成、各楽器の表現などが充実した後期の作風の嚆矢を成している。 特に、この第7番は一番規模が大きいものとなっており、全楽章がソナタ形式で書かれている。だが初演当時は上記の点が理解されず、特に第2楽章については「悪い冗談だ」という声まで上がったという。

 

1楽章 ヘ長調。第2ヴァイオリン、ヴィオラの和音に支えられてチェロが第1主題を提示し、それが第1ヴァイオリンへと受け継がれるという、当時としては破格の書法で始まる。展開部ではフガートが用いられ、再現部を経て長大なコーダで締めくくられる。400小節を超える大曲。

 

作品番号186曲の弦楽四重奏曲を完成させた後、このジャンルにおいてベートーヴェンは5年間の沈黙に入った。その5年の間に「ハイリゲンシュタットの遺書」で有名な「危機」を乗り越え、真にベートーベン的な世界を切り拓く「傑作の森」の世界へと踏み入る。交響曲の分野では「エロイカ」を、ピアノソナタでは「ワルトシュタイン」や「アパショナータ」を、ヴァイオリン・ソナタの分野では「クロイツェル」の大作を書き上げた。そして交響曲の4番・5番・6番という、創作活動の中核といえるような作品が生み出されようとする中で「ラズモフスキー四重奏曲」と呼ばれる3つの弦楽四重奏曲が産み落とされた。 

2007/01/15

ジャンプ(フィギュアスケート観戦ガイド)part1

 フィギュアスケートというのは、非常に難しい競技である。大体において採点競技というのは難しいものだが、フィギュアスケートの配点は驚くほど、非常に細かいところまでシステマティックになっているのである。大まかに言って、以下のような感じになるらしい。

シングルのエレメンツ
■ジャンプ
公式に認められているジャンプは六種類あり、着氷は総てRBOのエッジで行う。
LFORBI等の記号の意味・・・L/Rは左右、F/Bは前後、O/Iはエッジがアウトかインかを指す記号で、これら三つを組み合わせた符号で表している。

名称:左足:右足
・トウループ:トウを突く:RBO
・ループ:使わない:RBO
・サルコウ:LBI:使わない
・フリップ:LBI:トウを突く
・ルッツ:LBO:トウを突く
・アクセル:LFO:使わない

ただし逆回転の人は、左右逆になる。回転数の多少はあっても、踏み切りの仕方で、この六種類のどれかが決まる。

つまり解説などでは通常、回転数と合わせてトリプル・アクセルなどと表現するが、踏み切った時点で種類を表す後半部分は分かっているのである。回転数はシングル(1回転)、ダブル(2回転)、トリプル(3回転)、クワド(4回転・クワドラブル)で呼び、アクセルだけが前向きに踏み切る。トウループ、ループ、サルコウは踏み切り動作から回転が始まり、フリップとルッツはトウを突いてから回転が始まる分、難しくなっている(「トウ」とは「トウピック」の略で、ブレードの先にあるギザギザの部分の事・・・フィギュアスケートの靴に特有で、ジャンプやスピンに入る時に使用するためのもの)

フリップとルッツの違いは、エッジがインかアウトかにあるが、これをきちんと跳び分けられている選手は少ない(「エッジ」は、氷に接する刃の部分・・・フィギュアの刃の部分には溝があり、足の内側に倒すことをイン、外側をアウトという)

一応、後ろを向いてすぐに跳べばフリップ、長ければルッツという事になっている。

TV観戦をしていると「トリプルアクセル」や「トリプルトウループ」、或いは「トリプルルッツ」と言った言葉が次々に出て来て、素人目には見ていても区別がつかないが、上記のような違いがあるらしい。

■ジャンプコンビネーション・ジャンプシークエンス
ジャンプで着氷したRBOからそのままトウループ、またはループを跳べばジャンプコンビネーションに、次のジャンプまでにステップが入れば、ジャンプシークエンスになります。すなわちシークエンス(「連続」という意味)は、どんな組合わせでも出来ますが、コンビネーションの2つ目以降はトウループ、またはループしか出来ないわけです。

■スピン
上体の姿勢、軸足(滑っている方の足)、フリーレッグ(滑っていない方の足)の位置で、三つないし四つに大別されます。
 ・キャメルスピン:上体とフリーレッグが水平に一直線になっているもの
・シットスピン:軸足が曲がってしゃがんだ状態のもの
・アプライトスピン:軸足が伸び、上体が立っているもの
・レイバックスピン:アプライトスピンに近く、上体が反っているもの

■ステップシークエンス
スパイラル以外は、単に進むコースで分類されているだけです。勿論、その中身は、技術力により多種多様です。
・サーキュラー・ステップシークエンス:おおよそ円形に回るもの
・ストレートライン・ステップシークエンス:中央または対角線上をおおよそ直線的に進むもの
・サーペンタイン・ステップシークエンス:半円を3つつなげたような大きく蛇行した曲線を描くもの
・スパイラル(螺旋状)、ステップシークエンス:フリーレッグを腰より高く上げるポジションを幾つかとりながら進むもの

と、際限なく続く(以下、略)

次は専門家による、観戦ガイドである(フィギュアスケート資料室から引用)
ジャンプ、スピン、ステップシークエンスがあります。まず、ジャンプ。踏み切り方の違いにより、トウループ、サルコウ、ループ、フリップ、ルッツ、アクセル6種類があり、この順に難度が高くなります。そして、踏み切ってからの回転数(ひねりの数)により、シングル(1回転)トウループ、シングルアクセル、ダブル(2回転)トウループ、ダブルアクセル、トリプル(3回転)トウループ、トリプルアクセル、クワド(4回転)トウループとあります。


それぞれに基礎点が少しずつ差をつけて定めてあり、選手は制限回数内でより高い点を得るため、難しい(基礎点の高い)ジャンプに挑戦するか、逆に中途半端なミスで失点しないよう、出来るもので確実に点を稼ぐかの戦略が問われる。ジャンプの呼称については、例えば「トリプルルッツ」などというのが普通だが、感覚的には「ルッツ跳び3回ひねり」だったりする。

続いてスピン。基本の姿勢はキャメルスピンシットスピンレイバックスピンアプライトスピン4つあり、いずれかの基本姿勢だけで終わる事は必須の要素を除いて少なくなっている。スピンで基礎点を上げる(レベルを上げる)ためには、基本姿勢を難しくした変形ポジションをとったり、基本姿勢から基本姿勢へ変化させたり、軸足を換えたりする事が要求されるからである。ところが、こうしたことは難しく、バランスを崩したり回転速度が落ちたりして、逆にマイナスになる可能性もあることは言うまでもない。

2007/01/14

モーツァルト ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』(第3楽章)

 


彼が古文書館での調査で明らかにした事実は、以下の通りである。

 

まずは、長年「ジュノーム嬢」とされてきた女性は「パリの有名な舞踏家で、モーツァルトの親友の一人だったジャン・ジョルジュ・ノヴェールの娘のヴィクトワール・ジュナミー(Victoire Jenamy)であった」

そして、ヴィクトワールがなかなかの技量を持ったピアニストだったことも、当時の演奏会評などから明らかになった。美しかったかどうかは分からないが、なかなかのピアニストだったことは確かだったようだ。

 

このノヴェールとはその後深いつきあいになり、パリ旅行の時は彼女の力を借りてフランス風の大規模オペラの注文を取ろうととしていた。そして、彼女のために「レ・プチ・リアンのためのバレエ音楽」も書いている。ただし、この作曲に対しては謝礼が支払われることはなかったようで、父親宛の手紙の中で

 

「あらかじめ謝礼がどのぐらい支払われるのか分からないときは、絶対に何も書かないつもりです。今回のは、まったくもってノヴェールへの友情の結果にほかなりません」

などと書いている。

 

最終楽章にフランス風の宮廷舞踏の音楽が挿入されるのは、ジュナミ嬢の祖国フランスを仄めかすウィットだと言われてきたが、どうやらモーツァルトがそこで仄めかしたのはジュナミ嬢の父親だったらしい。

 

これまでも繰り返し書いてきたように、モーツァルトのピアノ協奏曲の大部分は当日に開く「予約演奏会」のため、昼間のうちに書き散らかしてきた「商品」であった。したがってベートーヴェン以降の作曲家のように、なにかをテーマに採った「芸術作品」とは、そもそも次元が異なる。これは誰がどうだということではなく、時代の違いとしか言いようがない。しかしながら、この『ジュノーム』に限っては、モーツァルトにあっては珍しい「なんらかのテーマに基づいて作曲された」貴重な作品であることは確かだと見られるのである。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲といえば、大抵の場合話題になるのは『第20番』以降の後期作品ばかりである。全体の出来栄えとして、勿論後期になるほど充実してくるのは間違いないが、初期から中期にかけてもモーツァルトの原点とも言うべき、美しいメロディを散りばめた珠玉の名品が揃っている。その中でも、ひときわキラリと美しい輝きを放つのが第9番『ジュノーム』なのである。

 

この華やかな曲を聴いているだけで、見たことのないパリの名ピアニスト・ジュノーム嬢の清楚なイメージが頭に浮かんでくるようで、曲自体の規模と充実度はどこから見ても後期作品群にヒケを取らない傑作だと断言できる。

2007/01/13

モーツァルト ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』(第2楽章)

 


この作品に「ジュノーム」という愛称をつけたのは、第3版のケッヘル番号(モーツァルトの作品番号)の改訂を行ったアインシュタイン(物理学者のアインシュタインではない)であり、第2版までのケッヘル番号まではその様な愛称がなかった。

 

だが、全く自明のことであるかのように「ジュノーム協奏曲」という愛称をつけたアインシュタインは、何を根拠にしてその様なネーミングをしたのかには全く触れていない。つまりアインシュタインによって、このK271の協奏曲は突然のように「ジュノーム協奏曲」という名前をつけられたのであり、モーツァルト研究の権威というか、神様のような存在であるアインシュタインが「ジュノーム協奏曲」と名付けたのならば、いったい誰がその事に異を唱えられるか。結果として、それ以後のケッヘル番号の編集作業ではこのネーミングは疑問の余地のないものとして受け継がれ、今日ではすっかり「ジュノーム協奏曲」という愛称は定着してしまったのである。

 

それでは、肝心のジュノームとは何者なのか?

それが、まったくもって分からなかった。

 

ところが、ついにこの謎に終止符が打たれる時が来た。その第一報はニューヨーク・タイムスの記事で

A Mozart mystery has been solved at last.」(ついに、モーツァルト・ミステリーの1つが解決した)

と報じられた。

 

この根拠となったのは、ローレンツという研究者がウィーンの古文書館を調査して発見した事実である。ただし、この記事はあまり詳しいものでなく、その後ローレンツ自身の発表によって詳細が明らかにされるのだったが、その発表までにローレンツの元には詳細を尋ねるメールが山のように舞い込んだと言われる。

2007/01/12

モーツァルト ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』(第1楽章)

 


21歳を迎えたモーツァルトは、今までのピアノコンチェルトは全く相貌を異にした成熟した作品を生み出した。それが、今日「ジュノーム」という愛称で親しまれている、この曲である。

 

この飛躍をもたらしたのは、この作品の愛称のもとになっているフランスの若き女性ピアニストであったジュノームとの出会いだ、と言われてきた。彼女は、この作品が生み出される前年にザルツブルグを訪れて何度か演奏会を行い、その演奏が若きモーツァルトに芸術的インスピレーションを与えてこの作品に結実した・・・と言うのだ。

 

しかし、肝心のこのジュノームという人については、これまで詳しいことが分かっていなかった。現在のモーツァルト研究の大家たるザスローも、次のように述べている。

 

    彼女は偉大なピアニストだったのだろうか?

    若くて美くしかったのだろうか?

    彼女については何も分かっていない。

 

結構筆まめでたくさんの手紙を残しているモーツァルトだが、このジュノームに関しては殆ど詳しいことは触れられていない。僅かに触れられているのは、ミュンヘンでの演奏会で、この作品を演奏したことを父親に告げる手紙で「ジュノミ用」と書いていることと、パリでの滞在時で彼女と再び会ったことを仄めかしていることだけだ。だが重要なことは、一度も「ジュノム嬢(Mademoiselle Jeunehomme)」とは表現していないことである。

 

6番、第8番、第9番は作曲年代が近いが、3曲の中で最後にあるこの第9番は内容、形式ともに特に優れた曲として高く評価されている。

 

1楽章の冒頭で、オーケストラによる第1主題の呼びかけに応えていきなり独奏ピアノが登場するところなどは、型破りなスタイルで、このスタイルはベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、第5番「皇帝」の先駆とも言われる。特に「皇帝」とは、変ホ長調という調性も共通している。「皇帝」に比べるとかなり可愛らしい感じとはいえ、ソロの登場の仕方などもかなり似ているといえる。

2007/01/05

リスト 交響詩第11番『フン族の戦い』(Hunnenschlacht)

 


リストの肖像画も多数残しているカウルバッハの絵にインスパイアされて作曲された。

カウルバッハの絵は、451年のカタラウヌスの戦いを描いた絵である。

 

ゲルマン民族大移動の時代、一大勢力を築いたアッティラ大王の率いるフン族は、451年のカタラウヌスの戦いでローマ、西ゴート、フランクの連合軍に敗れ、フン族の帝国は瓦解した。 その一部がドナウ河畔に定住し、ハンガリーのルーツとなる。

 

アラン・ウォーカーの『リスト』では、アッティラは皇帝テオドリックと戦ったと紹介されており、その注釈で「これはリストの序文による情報だが、これは間違っている」となっている。が、マイクロソフト・エンカルタによれば、西ローマ帝国の将軍アエティウスは、西ゴート王テオドリック1世の支援を受けてフン族を撃退した。しかし、カタラウヌムの戦いでテオドリック1世も戦死したとなっているので、リストの序文は正しいのかもしれない。

 

フンガロトンのCDの竹家氏によるライナーでは、1856年にリストはチューリッヒのワーグナーを訪ねた帰りに、ミュンヘンのカウルバッハの元を訪れ、しばらく滞在しそこで絵を見たことになっている。アンドラーシュ・バタによるオリジナルの解説では、ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人が、まずこの絵に感銘を受け、その複製をリストに送ったとなっている。この絵はベルリン美術館の階段の壁に飾られていたが、第二次大戦時の戦火で消失したとのこと。この曲の中では、コラール「十字架に誠実なれ」が使われる。

 

エンディングの響き(旋律ではなく)が、楽器の選択の仕方からか、続く『理想』の主題に似ており『ファウスト交響曲』の第1楽章「ファウスト」のエンディングも連想される。オーケストラの壮大な音と、オルガンによるコラールの旋律が交互に奏でられ「戦争」が持ち合わせる性格や「英雄」、「悲劇」、「救済」といったテーマを描いたものと思われる。

 

リストは、オルガンの演奏について「カーテンの後ろに位置し、隠れているように」と指示している。コラールの旋律は、天からの「救い」、「慈愛」というような意味合いが強くなる。このような演出的な効果は、リストは同じように『ダンテ交響曲』の『マニフィカト』でも実施しようとした。 アラン・ウォーカーによると、リストは楽譜に、例えばイントロの部分では「亡霊のような音」、ホルンのパートでは「戦争の悲鳴」といった指示を書いている。

2007/01/04

リスト 交響詩第7番『祭典の響き』(Festklänge)

 


リストと言えば、ピアニストとしてあまりにも有名すぎるため「作曲家」として採り上げられることが少ないが、実際には作曲家としても超一流である。交響詩の創始者であるばかりか、なにしろロマン派の申し子のような存在だけに、壮大でドラマティックなオーケストレーションが素晴らしい。なんといっても、あのワーグナーの先生なのだから、ド派手に決まっている。   

 

『祭典の響き』は、リストが作曲した7番目の交響詩である。1854年に、ヴァイマルでシラーの戯曲「芸術への忠誠」が上演された際に、その序曲として作曲し初演された。だが、劇の内容と直接的な関係は持っている訳ではなく、一説によれば当時同棲生活をしていたヴィットゲンシュタイン伯爵夫人と近く結婚することを想定し、そのための祝典序曲として書かれたものと言われている。特定の表題を持たない点で、リストの他の交響詩とは性格が異なっているが、リスト自身は交響詩という名称をかなり自由な内容の曲にも拡大して用いていたようである。

 

ティンパニに導かれて出る行進曲風の主題に始まり、続くいくつかの主題を基に組み立てられており、祝典的で輝かしく喜ばしい気分のうちに進められる。この曲は、ザイン=ヴィトゲンシテイン侯爵夫人に献呈されている。婦人がポーランドの出身だったため、曲中にポロネーズのリズムを使っている。

 

1847年、リストがウクライナに演奏旅行した際に、キエフの大地主であるカロリーネ=ザイン=ヴィトゲンシテイン侯爵夫人と親交を結ぶようになる。2人は同棲したが、カトリックでは離婚を禁止していることと財産相続上の問題もあって、結婚は認められなかった。その後、1861年にカロリーネと結婚すべく動いたリストであったが、遂に果たせなかった。それ以降リストは僧籍に入り、生涯黒衣をまとうようになった。

2007/01/03

リスト 交響詩第1番『人、山の上で聞きしこと』(Ce qu'on entend sur la montagne)

 


リストが作曲した最初の交響詩。

タイトルは『山上で聞きしこと』や『人、山の上で聞いたこと』などとも表記されるが、稀に『山岳交響曲』と呼ばれることがある。リスト自身が最初、この作品を「交響的瞑想」と呼び、その後「山岳交響曲」と呼んだことに端を発している。リストの交響詩の中では、最も演奏時間が長い。セザール・フランクは、リストに先んじて1846年に同じ題材による同名の交響詩を作曲している。

 

リストは交響詩を生み出し、13曲を残しているが、この交響詩は最初のもの(第1番)で、かなり早い時期に1833年から1835年頃にかけてスケッチを行なっている。そして最終的には1849年に完成し、翌年の1850年にヴァイマルで初演されたあと、改訂が何度も加えられて現在の形となった。リストの交響詩『山上で聞きしこと』も、それぞれの「声」を主題で表わし、それらが入り組むことでドラマティックな世界を描く。

 

リストの交響詩における「詩」の占める比重として、象徴的に用いているのみの「オルフェウス」(S98)、『プロメテウス』(S99)らのグループに対し、この『山上で聞きしこと』は『理想』(S106)と同じく音楽語法による構築よりも、詩、文学のコンセプトによる構築の比重が大きいと言える。

 

タイトルは、当時同じサロンでリストと親しく交際のあった、詩人ヴィクトル・ユゴーの1831年に出版された詩集「秋の葉」の一篇に基づいている。詩人は山の中で2つの声を聞くが、1つは広大で力強く秩序のある自然の声であり、もう1つは苦悩に満ちた人間の声である。この2つの声は闘争し入り乱れ、最後は神聖なものの中に解消することになるというものである。

 

自然の神秘を表現した漠たる気分で始まり、やがて人間の主題と崇高で雄大な自然の主題が現れ、両者が互いに争うように進むうちに、アンダンテ・レリジオーソの主題がトロンボーンによって荘重に奏され、最後は平和な静けさの中に曲の終わりを告げる。詩人が山に登り、苦悩に出会った後、自然の美しさや達成感を表した内容を描いたのである。

 

1833-1835年頃に書き、1849年に完成。ワイマールで、リスト自身の指揮により1850年に初演。だが、難しい上、長すぎると指摘され、その後、改訂された。オーケストラの魔術師・リストの第一歩でもある。