2012/08/12

日本流儀(ロンドン・オリンピックpart7)

男女合計14階級で「金」が「たった一つ」に終わった柔道。男子に至っては、オリンピック史上初の「金メダル0」という、歴史的惨敗に終わった。

 

かつては日本の「お家芸」と言われた柔道で、メダルが取れなくなってきた理由は、大きく2つあると見る。一つは、かつては世界的に見て競技人口が少なかったが、オリンピックなどを契機として世界中に広がっていったこと。本来、柔道というのは空手などと同様に「武道」であって「スポーツ」ではないが、外国選手にはおそらく「武道」などという概念はないから、柔道も「JUDOというスポーツ」の一種となった。だから外国における「JUDO」は、他の競技同様に「ポイントを競うスポーツ」へと変化している。

 

オリンピックの種目として世界に広まっていく段階で「柔道という武道の精神」などはどこかに置き去りにされ、単に「ポイントを競うスポーツJUDO」へと変わっていった。あの見苦しい「青い柔道着」こそは「スポーツJUDO」の象徴である。これは、あくまで「一本勝ちこそ柔道の美学」とする日本の「柔道」とは、まったく別物と言うべきである。あくまで綺麗な一本勝ちに拘る「日本の武道」と、不細工でも反則でもなんでもとにかく勝てばよいという外国の「スポーツJUDO」が戦うのだから、これは日本が不利なのは明らかである。

 

この図式は「国技」の大相撲にも通じる。かつての小錦や曙といったハワイ力士などは、最たる例である(モンゴルの場合は、日本の相撲に相当する「モンゴル相撲」の下地があるだけに、ハワイとはまったく異なる)。まさに圧倒的な体力にものを言わせるだけの「おしくらまんじゅう」であり、技も国技の精神もヘッタクレもなく、ただただブルドーザーのように闇雲に突進するのみであった。無能無策であっても、ただただ肉の圧力だけで土俵の外に押し出してしまえば勝ちという、あのハワイ力士の相撲は「SUMOというスポーツ」であり、それは力こそ正義の世界で「国技の精神」などは微塵も入る余地はない。

 

柔道の場合は「体重別」とはいえ、同じ体重でもやはり骨格の太さ、或いは肉食人種の筋肉が優れているのは自明である。相撲同様、柔道でもパワーは重要な要素だが「柔よく剛を制す」というように、単にパワーが強く大きければ良いというものではない。要するに、日本の「柔道」と外国の「judo」はまったく別物であり、日本が勝てなくなった理由は、まさにこれに尽きる。そして、オリンピックなどの国際大会では、もはやこの流れを変えることはできない。

 

となれば、日本の取るべき道はオリンピックなどの国際大会には背を向け本来あるべき「柔の道」を貫くか、あるいは「柔の道」と「スポーツJUDO」で勝つための「姑息なポイント稼ぎ」のスキルを追求する、この二つを分離して育成するかであろう。いずれにしても、今のように「一本勝ちの美学」に拘りながら、国際大会でも勝とうという中途半端な姿勢では、掛け逃げあり反則ありと勝つためには手段を択ばない「醜い柔道」の外国勢に太刀打ちできないことは、もはや明らかとなっている。それどころか、今回の代表選手に関しては簡単に一本負けを食うなど、あのYAWARAさんも指摘していた通り「武道家としての風上にも置けないようなヘボ集団」としか言いようがなかった。

 

「二兎追うものは一兎も得ず」という。ましてや、今回の代表団のような中途半端な実力ではなおさらで、今後は「武道・柔道」と「スポーツJUDO」を分離した育成を行うべきである。

 

これは必ずしも柔道に限った話ではない。日本と外国とでは、そもそも「勝負」に対する考え方が大きく異なる。「勝てば官軍」というのが「世界の常識」であり、バレさえしなければ反則でもインチキでも何でもやる。幾らクリーンであっても負けては価値がなく、裏を返せばダーティであっても「勝者」こそがヒーローだ。「金メダリスト」の称号は後世に残るが、内容などはすぐに忘れられてしまうのだから。

 

これに対し日本の場合は「一生懸命に頑張る姿」が、なにより尊ばれる。「一生懸命に頑張る」などは、名もない市井の社会人でも「当然の前提」である。ましてや「オリンピック」などという一生に一度の晴れ舞台、ここで頑張らなくてはいつ頑張るのかと言いたくもなるが、驚いたことに「結果よりも、一生懸命に頑張ることが大事」などと子供じみたことが、大の大人はおろか時には専門家の口からも真顔で吐き散らされるのである。

 

それも道徳教育のような「建前」かと言えば、決してそうではないところが日本人のユニークなところで、これが結構「本気」の発言だったりする。なによりインチキや不正などはもっての外であり、そのような「姑息な手段で獲得したメダルなんぞは一文の価値もない」という風潮が根強い。冗談ではなく「内容の伴わない勝利」ならば「正々堂々と戦って敗れた方が、遥かに評価される」のが日本である。

 

再び外に目を転じれば「メダル大国」のアメリカやイギリス、フランスなどは、黒人選手が大活躍している。無論、あれらの黒人選手は、本来ならば象牙海岸などアフリカ某国の代表でなければならず、実際には欧米とは何の関係もないはずなのだが、それでも白人たちは国旗を振って涙を流して喜んでいるではないか。その傍らで当の選手たちは、地べたに這いつくばってアッラーの神に祈りを捧げている。翻って日本は、ほぼ純血だ。仮に在日外国人の日本代表選手が金メダルを取ったとしても、あれほど手放しで喜ぶことは絶対にない。「負けても弱くてもいいから、日本人が世界を相手に頑張る姿」が、真に日本人の感動を呼ぶのである。

 

たとえばサッカーや陸上の「4×100」リレーに、それぞれ強力な外国人選手が入っていれば、メダルのチャンスも充分にあったろう。殊に黒人選手の独壇場ともいえる陸上短距離のあの陣容の中で、日本の4人がファイナルに残るというのは大変なことであり、メダルよりも黒人選手に囲まれて「日本人4選手が頑張った」こと自体が、なにより感動を呼ぶのである。なんだかんだとケチをつけているワタクシも、実は理屈を超えて多くの日本人と同じ感情を持っているのは、もはや「遺伝子」というレベルかもしれない。傭兵を雇ってまで、無理して「世界の常識」に迎合する必要はまったくない。たとえ1つか2つしか取れなくても「正々堂々と戦って日本人に獲ってもらいたい」という願望である。

 

その日本が、今大会は予想外に多くのメダルを獲った。「金」こそ7個に終わったものの、メダルの合計「38」は過去最多でアメリカ、チャイナ、ロシア、イギリス、ドイツに次ぐ6番目だから立派なものだ。このうちアメリカ、イギリスは黒人ら「傭兵」で多くを稼いだイカサマであり、チャイナは人口が日本の10倍以上だからそもそも比較の対象外である。

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