神代六之巻【須佐之男命御啼伊佐知の段】本居宣長訳(一部、編集)
口語訳:こうしてそれぞれ命ぜられた国を治めることになったが、そのうちで速須佐之男命だけは、言われた国を治めようとせず、ひげが長く伸びて胸に届く年頃になっても大声で泣き続けていた。その様子は青山を泣き枯らし、海と川の水をすっかり干上がらせてしまうほど凄まじかった。そのため悪神がやって来て地に満ち、あらゆる災いが起こった。
そこで伊邪那岐命は、速須佐之男命に
「お前はなぜ国を治めようとせず、泣き続けているのか」
と尋ねたところ
「僕は母の住む国、根の堅州国に行きたいから泣いている」
と答えた。
伊邪那岐命は激怒し
「お前は、この国に住んではならん」
と言って、追い出してしまった。
その後、伊邪那岐命は近江の多賀に住んだ。
各は、書紀の称徳天皇条に「おのもおのも」とあるので、そのように読む。おのれもおのれもという意味である。
○賜(たまえる)は、単なる尊敬の言葉である。【「賜う」という尊敬語については、師は「そのことをよくたねらい得ることで、自分のことにも言う例が多い」と言った。だが今思うと、これは物を賜うことから出た言葉だろう。それは「奉る」という言葉も、物を献げることから出て、単なる尊敬語としても「~し奉る」などと言い「賜う」と「奉る」は反対の関係にあるからである。また敬語で、自分の動作に「侍る」、「候」などと言うのは、もとは貴人に仕える意味の言葉から出ているし、今の世で俗に「しかじかと申す」と何にでも「申す」と言うが、これも貴人に物を白(もう)すことから出ている。およそ尊卑を表す言い回しは、その実際の動作を言う言葉から出ていることは、上記の例から明らかであるから「賜う」もまた同様であろう。ただし、自分の動作に「賜う」と言う例も多い。これはまだよく分からない。検討の必要がある。強いて言えば、今の世に自分のことについて「ございます」と言うのが似ている。「御座」とは尊敬表現であるが、相手を尊んで言う場合にも、このように自分の動作を尊敬語で言うことがあるのである。また「お見舞いもうしあげます」、「お礼をもうしあげます」などもやはり自分の動作に「御」を付けるのだが、その実は相手を敬って言っている。ということは、自分の動作に「賜う」を付けるのも、このたぐいだろうか。】
○命(みこと)は御言である。
○随(まにまに)。続日本紀九の詔に、「吾孫将知食國天下止、與佐斯奉志麻爾麻爾(アがミマのシラサンオスクニあめのしたと、よさしマツリシまにまに)」とある。
○乾は「ほしき」と読む。【「き」は助詞である。】この言葉は「ひふほ」と活用する。【「ふ」と読んだ例としては、書紀の人名に「市乾鹿夜、乾は『賦(ふ)』と読む」とある。】「来(く)」が「きくこ」と活用するのと同じである。「ほす」は「令レ乾」である。書紀には「この神は勇悍で残忍であり、いつも泣き叫んでいるので国の内の人民は多くが若いうちに死んだ。」、また「この神は悪い神で、いつも泣き叫び、国民は多くが死に、青山は枯れてしまった」ともあるのだが、この記では人が死んだことを言わないのは、山海河について「枯らした」と言えば、人だけでなく万物を損なったことも含まれているからであろう。だがこの神が泣きいさちるために山海河が涸れたというのは、どういう理由だろう。【泣けば涙が出るので、その涙に吸い取られて、山海河の潤いも無くなってしまったのだろう。その潤いが無くなれば、万物は損なわれるのである。】
この神がこういう様子であったのは、伊邪那美命が「人草を一日に千頭縊り殺そう」と言ったことによる。この神は、母神の黄泉の穢れの残留物から生まれたのである。【例の漢籍の世迷い言を信じている人たちは、あの五行の説に無理にこじつけ、この神を金性の神と言い、その金気が植物を枯らしたなどと言うのは腹立たしいほどの悪説だが、一面では滑稽でもある。もしそうなら金は水を生ずるはずなのに、海河を泣き乾したというのでは、つじつまが合うまい。
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