○高御産巣日神天照大御神之命以(タカミムスビノカミ・アマテラスオオミカミのみこともちて)云々。こうした詔命を言うときに、この二柱を並べて書いたところもある。天照大御神を先に挙げ、高御産巣日神を次に挙げたところもある。高御産巣日神の名を省いて、天照大御神だけを書いたところもある。天照大御神が表で、高御産巣日神は裏にいるような存在だからである。というのは、高御産巣日神は高天の原を治める君主でなく、【だから裏のような存在だ。この神を二番目に挙げたり、省いたりするのもこのためである。】
天照大御神こそ、伊邪那岐の大神の詔命によって、初めて高天の原を治める君主となり、【だからこの神が天皇の祖先神なのである。】その天津日嗣を伝えて、御子を天降りさせようという詔命だからだ。【だから表のような存在である。この大御神を先に挙げ、または一柱だけを書くのもそのためだ。ところが書紀では高御産巣日神だけを挙げて、この大御神の名がないのは、納得できない。】
そうは言っても、高御産巣日神は天地の初めから高天の原にいて、【だからこの神を先にも挙げるわけだ。】この世のあらゆることが成り立つのは、ことごとくこの神の産霊(むすび)の徳によるのだから、【伝三の十三葉で述べた。】こうした詔も相並んで下し、【それを単に「母方の助け」といった風に説くのは、例の漢意だけで考え、わが皇神(すめかみ)の道を知らないのだ。およそ書紀の諸々の注は、この神について言っていることが、みなおろそかである。】また皇孫の遠祖といって崇めるのである。【これもまた、皇祖とするのは裏の存在であるような扱いだ。この神を皇孫の命(天皇)の皇祖と言うのも、外祖父だからにすぎないと思うのも、産霊の意義を知らないのである。この世の万物万事はこの産霊から成るのだから、皇孫の命の皇祖であるだけでなく、万人万物の生みの親なのだ。天照大御神はそうでない。皇孫の実際の祖神である。この違いをよく考えるべきだ。】
書紀の諸注で、上記の意味を分かったものが一つもないのは、どういうことだろうか。【ひたすら漢意に迷っていたからである。】
<口語訳:しかしその国には、蛍のように光を放つ神、五月の蠅のように荒ぶる神たちがたくさんいた。また草の葉までがみなものを言った。そこで高皇産霊尊は諸々の神を招集して、『私は葦原の中つ国の邪神たちを平定しようと思う。どの神を遣わせばいいだろうか』と言った>」。また一書に「高皇産靈尊勅2八十諸神1曰、葦原中國者、磐根木株草葉猶能言語、夜者若2ホ(火+票)火1而喧響之。晝者如2五月蝿1而沸騰之(タカミムスビのミコトやそモロカミにのりたまわく、アシハラのナカツクニは、いわね・きね・ちぐさのカキハもこととい、よるはホベなしておとない、ひるはサバエなしてわきあがる)<高皇産霊尊は諸々の神たちに『葦原の中つ国は、石も木の根も草の葉もみなものを言い、邪神たちが、夜は火の燃えさかるように騒がしく、昼は五月の蠅のように湧き出ている』と言った>」」【書紀では、これらを皇孫を天降らせようとするときのこととしており、この記とはやや異なる。】これら荒ぶる神の多くいる状態であり、上記の「さやぎてありけり」というのも、そのありさまを見て言ったわけだ。【このとき葦原の中つ国に荒ぶる神が多くいて平和でなかったのはなぜかというと、須佐之男命の穢れの名残があって、まだ清らかな天照大御神の惠みが及ばなかったからだ。前の須佐之男命の「青山を泣き枯らし云々」とあるところを見よ。伝七の巻に述べてある。】
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