「伊予」の語源については、諸説がある。
l 温泉説
「よ」は道後温泉の「ゆ(湯)」から転訛したものであり、それに発語の「い」を付して「いよ」になったという説である。一時は定説となっていたが、研究者の吉田茂樹が、延喜式に「伊予郡」と「温泉郡の2つの郡名があり、伊予が道後温泉を指すならば、別に温泉郡がある説明がつかないと指摘したことから、今日は否定されているとされる。また、寺内浩他編の『愛媛県の不思議辞典』も、上代特殊仮名遣からみて、一般的には「ゆ」は「よ」には音韻変化しないとして、この説を否定する。
l 湧水説
研究者の志賀剛の説では、古代人は、温泉以外に湧水も「いゆ」と呼んでおり、これが「いよ」になったとする。古代、水の湧き出ずる所は特別な地として扱われるようになり、これが湧水の周辺を指す小地域としての地名から、より広い地域、さらには古事記にいう「伊予の二名之島」=四国を指す地名となっていったというものである。
坪内寛もこの説を支持し、伊予神社(愛媛県伊予郡松前町)で、同神社は「正四位上」の位を朝廷から授けられた由緒正しい神社であり、祭神を愛比売命(えひめのみこと)と月夜見命(つきよみのみこと)とする。「愛比売」は古事記に、「伊予を愛比売といひ」とあるように愛媛の古名である。また、同名の伊予市上野地区にある神社の旧境内跡地には弥光井(いこい)神社(今日では湧水跡のみ)がある。古代、この地はゆるやかな傾斜地であり、水源に乏しかったことから、湧き水が特別重宝されたと推察されていることから、弥光井神社が伊予の語源であると主張する。
l 弥説
谷川士清の『倭訓栞』に載せる説である。伊豫ノ二名ノ洲と呼ばれた四国は国生み神話では淡路島の次に生まれたので、「いよ」は物の重なることを表す「弥」(いや)の意味であるという。
預説
『豫章記』に載る説である。「天神第六代面足惶根尊」が伊豫国を支配する際に「(伊豫国を)伊(彼に)豫(預ける)」との詔があったという。しかし、「いよ」が倭語であったとすれば、万葉仮名による仮借字の字義で解釈しようとするのは無意味である可能性がある。
愛媛県は、県成立時に新たに命名された地名。
愛媛の地は伊予国全域にあたり、『古事記』の国生みの条にある「伊予国は愛比売と謂ひ」に因んで「えひめ」と名付けられた。由来となる「愛比売」は、織物の盛んな地域だったことから織物に優れた女性の意味とする説と、「伊予之二名島(四国の古称)」の代表的な国であったことから長女の意味で「えひめ(兄媛)」とする説があるが、特定は難しい。
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが、大化の改新の後に「粟国」に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は「阿波」に変更された。
徳島という名は、もと、猪山(いのやま)の東方、吉野川の三角州の一つの島の名でしたが、嘉名ということで、城と城下町の名になったと言われています。吉野川の河口付近の中州(三角州)上に位置する徳島市内には、島の名が付く町名(徳島、寺島、出来島、福島など)が多いようです。
徳島藩は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政(1558~1639)が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう、渭津城とも、のち徳島城)に入城してから、城下町として発展しました。渭山は、その形が猪(いのしし)が伏している姿に似ているので、猪ノ山(いのやま)と言っていたのを、渭山(いのやま)の字が好いということで、猪山を渭山に改めたと言われています。そこで、改めて徳島県の古名、阿波の由来について調べてみました。
l 阿波(粟とも)の名の由来
阿波の国という徳島県の呼び名は、粟(あわ)がこの地で豊富に育てられていたのに由来するとされています。稲作に不適当な土地でも収穫することができる雑穀が、古代から人々の食を支えていました。
県名は、県庁所在地の名称に由来する。現在の徳島市は「渭津(いつ)」と呼ばれていが、天正13年(1585年)に蜂須賀家政が渭津に築城した際、この地を「徳島」と命名した。地名の由来は、吉野川河口で川に囲まれた三角州だったことから「島」、それに縁起の良い「徳」が冠されたと思われる。
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