アテネ民主制発展の最終段階がペリクレス時代(前443~前429)です。ペリクレスというのは人名です。はい、この人。頭に重装歩兵のヘルメットを
載せているね。この人あだ名が「デカ頭のペリクレス」。頭が異常に大きかった。だから、それをごまかすためにちょいとヘルメットを載せて彫像を彫らせた
とも言われています。頭が大きすぎて被れなかったのかもね。
ともかく、このペリクレスの時代にアテネの民主制は完成します。また、この時代、アテネそのものの絶頂期でもあったので、その時代の指導者の名をとって「ペリクレス時代」と呼んでいます。
民会、これが国政の最高機関です。18歳以上の男子市民による直接民主政。財産に関係なく、誰でも民会に参加できました。民会は今の日本で言えば国会だね。今の国会の審議はどうも気に入らない、一言物申したい、と思って私が国会に行っても中に入れてくれません。私、国会議員じゃないからね。国民に選ばれた者が国政について話し合う今の仕組みは「間接民主制」。アテネは直接民主政、ここがポイント。どちらが民主主義として理想かと言えば、誰でも物申せる直接の方がよい。そういう意味でこのアテネの民主政は、一つのお手本であるわけです。
もう一つのアテネの政治の特徴は、公職担当者を抽選で選んだ点です。今で言えば、総理大臣も裁判官も役人もくじで選ぶ。くじに当たったら誰でもそれをやる。これはいいことかどうか。少なくとも、役人は自分はエリートだからと威張らないだろうね。たまたまくじで選ばれただけだから腐敗もない。現代の官僚制と比較して、そういう点は評価できるのだと思います。
現在の政治経済は非常に複雑だから、抽選制を今実施することは不可能です。私が日本銀行総裁にあたっても、何をしたらいいか全然分かりませんね。この時代はポリスの規模も小さいし、それほど複雑な行政制度でもないので抽選でやれたんです。アテネの人々は、こういう政治制度を誇っていました。ある意味では徹底的に公平です。
政府の公職はくじで選んだのですが、例外があった。それが将軍です。戦争の指揮というのは、誰でも出来るものではない。ある種の才能や人望が必要です。もし無能な者が将軍になって、戦争に負けたら取り返しがつかない。だから将軍職は選挙で選びました。ペリクレスは、この将軍職に15年連続して選ばれたのです。その地位からアテネの政治を指導したわけ。だから完全に平等のように見えても、やはり指導者は必要だったんですね。
古代ギリシア民主主義の陰の部分を見ておきましょう。ギリシアは奴隷制度の社会です。隷制の上に成り立った民主主義だったことを忘れてはなりません。このころのアテネの人口を見てみると、市民が18万。奴隷が11万くらいです。この奴隷は喋る家畜です。人間としての権利など全くない。この奴隷に働かせて、ぶらぶらしている市民達の民主政です。
もう一つ、市民でも女性は権利ありません。女は子供を産む道具です。民会なんかには出られない。それどころか、男達からは対等な人格を持った存在とは考えられていなかった。対等な人格がないんですから愛も生まれないの。男は女を可愛がりますが、たとえて言えばそれは私たちがペットの犬を可愛がるのと同じようなものです。
じゃあ、男は誰と愛し合うかというと、当然男と愛し合う。戦場で一緒に隊列組んで生死を共にするんだから、愛が芽生えるのも当然かもしれません。愛の形というのは、時代と共に変わるんですよ。
市民18万中、民会に参加できる成年男子人口は4万人。奴隷もいれれば、全人
口約30万人中の4万だけが参政権を持つ。そういう民主政だったわけです。
民会はどのくらい開かれたかというと、年間40回くらい。だいたい一週間に一回の割合です。結構多いね。4万人全員が参加するわけではなくて、参加者はだいたい6000人位だったらしい。これがアゴラ(ポリスの中心にある広場)に集まって、わいわいがやがや。でも、6000というのはすごい数です
ね。これがどんなふうに議論できたのか、ちょっと想像できませんね。弁の立つものが、順番にスピーチをしていたんでしょうかね。
ペリクレス時代のアテネは、ギリシア諸ポリスのリーダーでもありました。サラミスの海戦でペルシア軍は撤退しましたが、またいつ攻めてくるか分からない。
そこで、諸ポリスは対ペルシアの軍事防衛同盟を結成しました。これをデロス同盟といいます。アテネはデロス同盟の盟主として、全ギリシアに号令する立場
についたのでした。