2018/08/31
ペリクレス時代
2018/08/29
釈迦(釈迦の思想2)
2018/08/24
神武天皇
二月二十日。
天皇の命によって、もろもろの将兵から精鋭を選びました。
このとき層富縣(ソホノアガタ=生駒市)の波哆丘岬(ハタノオカサキ=奈良市赤膚町)には、新城戸畔者(ニイキノトベ)という人物がいました。丘岬は塢介佐棄(オカサキ)と読みます。
また和珥坂下(ワニノサカモト)には、居勢祝(コセノハフリ)という人物がいました。坂下は瑳伽梅苔(サカモト)と読みます。
臍見(ホソミ=天理市?)の長柄丘岬(ナガラオカサキ=奈良県御所市長柄神社?)に猪祝(イノハフリ)という人物がいました。この三カ所の土蜘蛛は武力に頼んで、天皇に従いませんでした。天皇は兵の一部を派遣して、全員を誅殺しました。
また、高尾張邑(タカオハリノムラ)にも土蜘蛛が居ました。
その人と成りはこうでした。
身長は低く、手足は長い。
侏儒(サキヒト=小人=バカ)と似ていました。
皇軍は葛(カズラ=ツタ植物)を編んで、それを使って襲って殺しました。それで、その村を葛城(カズラキ)と名付けました。
磐余(イワレ)の土地の古い名前は片居(カタイ)といいます。片居は伽哆韋(カタイ)と読みます。
または片立(カタタチ)といいます。片立は伽哆哆知(カタタチ)と読みます。
皇軍はそうして敵を破り、大軍が集まって満たされました。それで磐余(イワレ)と改名しました。
注「満ちる」が古代日本語では「満(イ)はる」だったから
ある人は言いました。
「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。
このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が、この土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。
天皇と大きな戦いをしました。
ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。
それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」
また皇師(ミイクサ)が立誥(タチタケビ=大声を出すこと)した場所を「猛田(タケダ)」といいます。城を造った所を「城田」といいます。
また敵たちが戦い死んで伏せた屍(カバネ=屍体)が臂(タダムキ=「ひじ」のこと)を枕にしていた所を頰枕田(ツラマキダ)といいます。
天皇は前の年の秋九月をもって、天香山(アマノカグヤマ)の埴土(ハニツチ=粘土質の土)を取って、八十平瓮(ヤソノヒラカ)を作り、自ら齋戒(モノイミ=血や死の穢れや女性に触れずに清らかな生活をすること)をして、諸々の神を祀りました。それで区宇(アメノシタ)を静めました(=安定させました)。そこで土を取った場所を埴安(ハニヤス)といいます。
三月七日。
天皇は言いました。
「わたしが東征に出発して、6年になります。天津神の霊威によって凶徒(アタ=敵)は殺されました。周辺の国はまだ静まっていませんし、敵の残党はまだ勢いのあるものがあるが、中洲之地(ナカスノクニ=大和の国)は騒がしくない。皇都(ミヤコ)を広く広く取り、大きな宮殿を造ることにしよう。
国はまだ出来たばかりで若く、民は素直で、穴の中に住んで、古い習俗が変わらず残っている。聖人のやり方でしっかりと行えば、結果はおのずと付いてくる。民の利益になることならば、聖人のやることを阻むものは無いだろう。
そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」
この月に有司(ツカサ=役人)に命じて、帝宅(ミヤコ=天皇の家=都)を作り始めました。
2018/08/20
第一次シケリア戦争
出典Wikipedia