口語訳:ところが邇藝速日命は皇軍の陣営にやってきて、天神の御子に「天神の御子が天降ったと聞いたので、その後を追って参りました」と言い、天津瑞を献げて仕えた。この邇藝速日命が登美毘古の妹の登美夜毘賣を妻として生んだ子が、宇麻志麻遲命である。<これは物部連、穗積臣、采女(女+采)臣たちの祖である。>
邇藝速日命(にぎはやびのみこと)は、書紀に「饒速日、これを『にぎはやび』と読む」とある。名の意味は、「にぎ」は書紀の「饒」の字の意味で、邇々藝(ににぎ)の命を「天邇岐志國邇岐志・・・」とも言う「邇岐志」と同じだ。「速日」は上巻の「勝速日」の名のところ【伝七の五十三葉】で言った通りだ。
○參赴は「まいきて」と読む。書紀ではこの二字を「もうず」、「もうけり」、「もうきつ」などと読んでいる。「もう(旧仮名マウ)」は「マヰ」の訛った言葉で、「けり」は「来たり」の意味である。この他、「詣至」、「参来」、「来朝」、「来帰」なども「もうけり」と読んでいる。高津の宮(仁徳天皇)の段に「麻韋久禮(まいくれ)」、万葉巻四【四十六丁】(700?)に「參來而(まいきて)」、巻廿【十一丁】(4298)に「麻爲許牟(まいこん)」などがある。
○「白2於天神御子1(アマツカミのミコにもうさく)」は天皇に言ったのである。
○「聞2天神御子天降坐1故(アマツカミのミコあもりましぬとききつるゆえに)云々」は邇々藝命のことだ。
○追參降來(おいてまいくだりきつ)は、邇々藝命の後を追って、天から降ったのである。【天から降ったのを「参る」と言うのは普通ではないが、これは邇々藝命が既にこの地上に下っていて、それを尊んで「参る」と言ったのだ。】
書紀のこの巻の初めに「そもそも鹽土の老翁(シオツチのオジ)に聞いたところでは、東の方に青山に囲まれた美しい地があるということだ。そこに、天の磐船(いわふね)に乗って天から飛び降った者がいる・・・その飛び降ったというのは饒速日という者だろうか」とあり、終わりにも「饒速日命は天磐船に乗って大空を翔り、この国を見て降ったので、『虚空見日本國(そらみつやまとのくに)』と言う」【日本國とは畿内の大和国を言う。】
この邇藝速日命が天上から降った神であることは無論だが【新撰姓氏録でも、この神の子孫はみな天神の部に載っており、続日本後紀にも「天神饒速日命」とある。】どの神の御子か分からない。【新撰姓氏録にも、この神の父は記載がない。】考えるに、天照大御神の子孫ではなく、他の天神の御子だろう。【というのは、新撰姓氏録では通例、天孫、天神、地祇の三種があり、天照大御神の子孫を「天孫の部」、他の神の子孫を「天神の部」としているうち、この神の子孫は天孫に入れず、天神の部になっているからだ。それを先代旧事紀で天忍穂耳命の子、天火明命をこの邇藝速日命としているのは、他の古い書物の説と大きくちがっていて、全く偽りであることは、伝十五の九葉で言った通りである。だがこの神の天降りをたいへん重大事のように書き、「三十二の防衛の神、五部の人、五部の造、天物部、二十五部の人などをお伴に副えて降した」とあり、その神々の名を詳しく書いているのは、全く架空の話でもないようだ。思うにこれらは、実際には御孫の命(邇々藝命)の天降りの時のお伴で、古い本には伝わっていたのが、後世には埋もれたままに遺っていたのを取って、この邇藝速日命のことのように擬装した家伝があり、それを採用したもののように見える。】
この神が天から降った時代は、皇孫の天降りよりは後、神武天皇が日向を発った時よりは遙かに以前のことに違いないが、その間のいつとも定かには知れない。【皇孫の天降りを聞いて、追って降ったとあるので、続いてすぐ降ったように聞こえるかも知れないが、そうではない。皇孫が降った後、また同じようにして降ったので、「追って」と言ったのだ。その間に長い年月を経たかも知れない。また天皇が日向にいた頃に、昔倭国にこの神が天降ったと聞いたのも、最近あったことのようでもなかった。これはまだ神代のことだったので、人の命も長く、この神も天降って後、数百年も経ってから天皇に仕えるようになったかも知れない。旧事紀には、饒速日命は既に死んでいて、天皇に仕えたのは子の宇摩志麻遲命と書いているが、登美毘古の妹を妻としてとある。その登美毘古もまだ生きていたのだから、当時邇藝速日命が生きていたのも、疑うことはできない。】
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