2019/04/29

第二次ポエニ戦争(ハンニバルvsスキピオ)

 第二回戦(前218年~前201年)

これはハンニバルという名将が登場するので有名です。別名ハンニバル戦争。

ハンニバルは、カルタゴの将軍家に生まれます。父親が第一回戦でシチリアをローマに奪われたあと、現在のスペインの開発をする。当時スペイン内陸部はまだ未開発で、色々な部族集団もいた。ハンニバルは、父親とともに、スペインの諸部族を味方に付けながら開発をおこない、軍隊の養成もしていた。

やがて、父親が死んで跡を継ぐんですが、シチリアを奪ったローマにどうにか一泡吹かせて逆襲したいというのが、ハンニバルの宿願です。軍隊を率いて海路ローマを攻めればいいんですが、すっかり制海権はローマに握られていた。海上からローマを攻撃するのは不可能だった。

そこでハンニバルが考え出したのが、アルプス越えという奇策です。陸路アルプスを越えて、イタリア半島に侵入しようという。登山道も何もない時代です。これも不可能に近い。誰もがそう思っていたから、ローマもアルプス方面に軍事的な防衛をしていない。だから、逆にもしアルプス越えに成功すれば、一気に勝利を勝ち取るチャンスも大きい。

前218年春、ハンニバルは約5万の兵を率いて、スペインを出発しました。象軍というのもあって、37頭の象を連れていた。そのほか騎兵隊もあるから当然、馬もいる。これらを引き連れてアルプスを越えたのが10月。途中の山道は雪に埋まり、谷間に落ちたり、山岳民の襲撃を受けたりして、イタリア北部にたどり着いた時は、兵力は半分の2万5千でした。
 ところがこの2万5千の兵力で、ハンニバルはまる16年間イタリア半島で闘い続けるのです。

前216年、カンネーの戦いでは、5万を超えるローマ軍を殲滅しました。これは戦史に残る殲滅戦だそうです。その後も、ハンニバルはローマ軍を破り続けました。とにかくハンニバルは用兵の天才。繰り出す軍団が次々に負けるので、ローマは決戦を避けて持久戦にはいります。ハンニバルはある程度の都市を攻略するのですが、10年かかっても決定的な勝利は得られなかった。

原因の一つは、ハンニバルはローマの同盟市が離反して自分を支援することを期待していたのですが、分割統治がうまくいっていたんですね、離反がなかった。

もう一つは、ハンニバルの戦略です。彼は「戦争に勝利することを知っているが、勝利を利用することを知らない。」と評された。カンネーの戦いで大勝利したあとで、なぜローマ市を直接攻撃しなかったのか、今でも彼の戦略のなさが指摘されているところです。

 ハンニバルはローマを降伏させることが出来ないけれど、ローマもハンニバルに勝てない。ハンニバルはイタリア半島に留まり続けているわけですから、ローマも困った。

そこに登場するのが、ローマの将軍スキピオです。
スキピオは元老院の反対を押し切って、直接カルタゴを攻撃したんです。カルタゴの指導者たちは弱腰だから、直接攻略されたらあわててハンニバルを呼び戻すだろうという考え。これは一種の博打です。スキピオの出陣によってローマの守備はガラ空きですから、もし、ハンニバルが戻らずにローマを攻撃したら大変なわけです。

でも実際にはカルタゴ本国の指導者たちは、スキピオ率いるローマ軍が迫ったのを見てハンニバルに召還命令を出します。カルタゴ南方のザマでハンニバルとスキピオの決戦が行われ、不敗のハンニバルはついに敗れ、カルタゴは降伏しました(ザマの戦い、前202年)。

 カルタゴは本国以外の領土をすべてローマに奪われますが、国の存続は認められました。
 これがポエニ戦争第二回戦です。

大スキピオ
ハンニバルは、その後カルタゴの指導者の一人となりますが、失脚しシリア方面に亡命しました。一方のスキピオも大スキピオとよばれローマの大物政治家となるのですが、これも晩年に失脚しています。

ホントかどうか分かりませんが、のちに二人がロードス島で再会したという。ハンニバルは、すでにアレクサンドロス大王と並び称される名将で、スキピオはその彼を破っている。それが自慢のスキピオが、ハンニバルに問う。

「古今東西で最高の名将は誰か?」

ハンニバルは答える。
「それはアレクサンドロス大王である。」

スキピオ「では二番目は?」
ハンニバル「エピルス王ピュロスである。」(授業には出てこなかったけど、そういう人がいたのです。)

スキピオは自分の名前が出てこないので、いらいらしてくるのね。さらに問います。

「では、三番目は誰か?」

ハンニバル「それは、私ハンニバルである。」
スキピオ「あなたは、ザマで私に敗れたではないか。」

ハンニバルも負けず嫌い。
「そう、もし勝っていれば、私はアレクサンドロスを飛び越して一番だ。」
だってさ。

2019/04/28

犬のアンティステネス(1)

http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
 一般の人々が問題にするのは「快楽や財産・地位・権力」のようですが、そうしたものとは無縁に「ただ人間の優れ」のみを見て生き抜いたソクラテスの弟子として「欲望や財産・地位・権力」などを蔑み、それだけを追求しているような社会に戦いを挑み、犬のように吠えかかって「人間としての優れ」に意識を向けさせようとしたアンティステネスという弟子がいました。

 さて、ソクラテスは哲学という営みを「愛知(フィロソピア)」という言葉で始めて提唱し、その内容として「良く生きることについての知の愛し求め」として「人間としてのあり方を具体的・実践的に体現」させていきました。
 そのソクラテスを承けて、弟子達がその哲学を継承していきますが、一般にはプラトンがその代表とされ、さらにその弟子アリストテレスと解説されていきます。しかし一方で、古代にはそれとは異なった系譜の哲学があり、それはアリストテレス以降、むしろ時代の本流となっていくのでした。いわゆる「ストア学派、エピクロス学派、懐疑学派」といったヘレニズム・ローマ期の哲学の流れで、そのヘレニズム・ローマ期の哲学の源流ないし先駆となっているのが、実は「プラトン以外のソクラテスの弟子達」だったのです。

 そのプラトン以外の弟子の筆頭になるのが「ストア学派の源流となるキュニコス学派の祖アンティステネス」でした。彼は表題にも示しておいたように「犬(キュニコス)のアンティステネス」と呼ばれています。その理由についてはいろいろ言われますけれど、「彼の生き方」からの命名であったと考えられています。何故、彼は「哲学者として犬のような生」を選び取っていたのでしょうか。

アンティステネスの時代
 彼の生年も没年もはっきりしていませんが、とりあえず紀元前455年~360年頃ではないかという年代が推量されています。ということはソクラテスと14歳くらいしか違わない年下で、プラトンとは28歳くらい上ということになるわけです。ただこの激動の時代に、この年齢差は三人に同じ経験をさせてはおらず、またソクラテスが刑死したときアンティステネスは56歳頃というわけで、もうすでにその哲学観は確定しており、プラトンほどにはソクラテスの刑死がその哲学に影響は与えなかったでしょう。

 さて、私たちは何にせよ「生きる」ということを問題にする人々というのは、先ずもってはじめは、その「社会の中での具体的人生」のあり方において問題を感じる人々だと考えておきます。ですから、その人が生きている社会のあり方というものが、とりわけ問題になると理解します。ですからアンティステネスの場合も、「彼の生きていた社会のあり方」というものが問題になっていたと理解します。

 それは、いうまでもなく「紀元前300年代に入る直前から直後のアテナイ社会」ということになります。ということは、もうアテナイ社会の衰退期ということで、彼はギリシャを二分しての内乱であったペロポネソス戦争の後半の泥沼、そして敗戦、それにともなう社会の混乱、とりわけ戦後成立していた少数者支配である「30人政治」での恐怖政治と大殺戮、大量の市民の亡命と反政府運動、30人政治の崩壊、混乱の中でのソクラテスの死刑、といったような事件のただ中にいたことになります。社会の倫理観は動揺し恣意的となり、金や権力にすがる風潮、「力こそ正義」とする考え方、こうした中でアンティステネスは「人間として良く生きること」を問題にしていたのでした。

 こうした問題は、もちろんアンティステネスが始めて問題としたわけではなく、むしろ師である「ソクラテスの問題」でした。アンティステネスは、そのソクラテスに惹かれて弟子となっていたのですから、そのソクラテスの問題を自分の問題としていたのも何ら不思議ではありません。そして、それはむしろ「時代の問題」でもあったのです。ですからソクラテス、アンティステネスに続いて「具体的な生、実践的生」を問題とする人々が続々と続いて、結局「ストア学派」「エピクロス学派」「懐疑学派」といった「実践的生」を問題にするヘレニズム・ローマの哲学が生まれることになったのでした。この時代の哲学者は、こんな時代だったからこそ「人間としての誠実な人生」というものを意識して「身をもって体現」していこうとしたのでした。
 
その先駆をソクラテスとして、それについでいたのがアンティステネスであったのです。アンティステネスは、こうした時代にあってソクラテスの課題であった「真実あるべき社会」の追求を越えて、明確に「反社会的」となっていきます。

アンティステネスの出生
 それには、彼の出生も関係しているかもしれません。彼は両親ともアテナイ人という「生粋のアテナイ人」ではなく、母親がトラキアの人だったようでした。トラキア人は北方の辺境の民で野蛮人と見られていたようで、そのため彼は人から馬鹿にされることがあったようです。それに対して、ソクラテスがその馬鹿にした人を「たしなめた」逸話が伝えられ、またソクラテスはアンティステネスが武勇を示した時、もし彼の両親が二人ともアテナイ人であったら、彼はかくも卓越した者とはならなかったろう、とアテナイの人々に皮肉っぽく言ったとか伝えられています。「民族の生粋・純粋性」のみを誇り、「人間としてのあり方」をみようとしないアテナイの民に対する強烈な皮肉と言えます。

 伝えられているところでは、アンティステネスは前426年の「タナグラの戦い」で奮闘しめざましい活躍を示したようでした。そしてまたアンティステネスの方も、両親がアテナイ人で生粋であることを自慢する人を軽蔑したと伝えられます。逸話としては、彼も当時の市民の誰もがスポーツの鍛錬をしていたのにならいレスリングの競技者であったと伝えられていますが、彼は自分の出生を馬鹿にする者に対して、自分の両親は別にレスラーではないけれど自分はレスラーとして十分な者になっている、と応じていたと言われています。つまり両親の生まれが問題になるわけではない、ということを言いたかったわけでしょう。いずれにせよ、「アテナイ社会にすんなり受け入れてもらっていない」アンティステネスが見られます。

2019/04/23

文殊菩薩(5)

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文殊菩薩の由来(過去世の物語)

文殊菩薩は、なぜ智慧のすぐれた菩薩になられたのでしょうか。

お釈迦さまは『大宝積経』五十九巻に、このように教えられています。

 

遠い遠い昔、東のほうに無生という国があり、普覆(ふぶ)という名前の王がありました。

普覆王は、その国に現れた雷音如来(らいおんにょらい)という仏を心から敬い、大いなる布施をし続けていました。

 

そんなある日、普覆王は今まで自分が積み重ねてきた功徳として、何を望むべきかに悩みました。

 

「帝釈天や梵天のような神として天上界に生まれるべきか、世界を支配する転輪王になるべきか、仏道を求める声聞しょうもんか縁覚えんがくになるべきか」

とつぶやくと、天から声が聞こえました。

 

「そんな小さな考えを起こさずともよい。そなたの今まで積んだ功徳は甚だ多い。最高の悟りである仏のさとりを求めるべきである」

 

それを聞いて、仏を目指すことを決意した普覆王は、雷音如来のもとへ行き

「どうすれば最高の悟りを得ることができるでしょうか」 とお尋ねしました。

 

すると雷音如来は

「大王よ、よく聞くがよい。私は遠い昔、もろもろの衆生のために幸せを施すことを誓い、そのように努力することで悟りを得たいという誓願を起こしたのだ。そして、その誓願の通り仏のさとりを開くことができた。

大王よ、そなたも誓願を立てて修行をすれば無上のさとりを得られるであろう」

といわれます。

 

喜んだ普覆王は、大勢の人の前で誓いました。

「私は今から、すべての生きとし生けるものの苦しみを救おう。数え切れない生まれ変わりの中で、どの生でも菩薩の行を修めよう。欲や怒りの心は起こさない」

「そして私はこれから仏の教えを学び、戒律を守る。急いで悟りを得ることは願わない。むしろ尽未来際仏にならず、生きとし生けるものを救うために菩薩として生きよう。そのためにあらゆる悪を遠ざけ、善に向かおう」

お釈迦さまは続けます。これが、文殊菩薩の過去世の姿です。

 

こうして限りない時を菩薩として修行に励み続け、生きとし生けるものを救い続けたのですが、誓願の通り一度も仏になろうという気持ちを起こしたことはないのです。

 

普覆王が誓いを立てた時、その場にいたたくさんの人が感動して一緒に雷音如来のもとで出家し、修行を始めました。今では、その人たちは全員仏になっています。

ですが、一人、文殊菩薩だけは、今でも菩薩としてその仏たちに布施をして、教えを守り続けているのです。

(出典:『大宝積経』)

 

文殊菩薩は、過去世にこのような願いを起こし、このような修行をして、今では非常に智慧のすぐれた偉大な菩薩になったのでした。

 

文殊菩薩と維摩居士の問答

『維摩経』では、文殊菩薩と維摩居士(ゆいまこじ)の問答が記されています。

 

維摩居士は、毘舎離(びしゃり)の町に住む富豪でした。商売をしたり、博打をしたり、遊女と付き合ったりして、出家はしていません。ですが、過去世から善を行っていた功徳によって真理を見通す智慧を持ち、人々を仏の道に入らせたいと願っていました。

 

ある時、維摩が病気になったので、お釈迦さまが誰か見舞いに行くように言われました。

ところが誰も行きたがりません。

そこで舎利弗(しゃりほつ)に見舞いに行くように言われると、舎利弗は維摩にはかつてこのようにやり込められたことがあるので、見舞いに行く資格がありませんと辞退します。

 

目連(もくれん)に見舞いに行くように言われると、同じように目連も辞退します。

大迦葉(だいかしょう)に言われても同じです。

 

お釈迦さまは、須菩提(しゅぼだい)、富楼那(ふるな)、迦旃延(かせんねん)、阿那律(あなりつ)、優波離(うぱり)、羅睺羅(らごら)、阿難(あなん)と、十大弟子に順番に声をかけていかれますが、全員辞退します。

次に弥勒菩薩(みろくぼさつ)にも声をかけられましたが、同じでした。

他の菩薩も辞退します。

 

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を建立した給孤独長者(きっこどくちょうじゃ)も声をかけられますが、辞退します。

 

やがて、お釈迦さまが文殊菩薩に声をかけられると、文殊菩薩も自分にはとても応対できるものではないと言いつつも、見舞いに行くことにします。すると舎利弗や大迦葉など、他のお弟子たちも、文殊菩薩と維摩居士の対談が聞けると思い、ついてきたのでした。

 

維摩の家に到着した文殊菩薩が、維摩の病を見舞い

「あなたの病気の原因は何ですか?」

と尋ねると、維摩はこう答えます。

「私の病の原因は、人々が病んでいるからです。人々の病が治れば、私の病も治るでしょう。子供が病に苦しめば、親が病気になってしまうようなものです。衆生病むが故に、菩薩また病むのです」

 

こうして文殊菩薩は、菩薩はどうあるべきか様々なことを維摩に尋ね、維摩は次々とそれに答えていきます。

 

最後に維摩が、悟りの世界とはどんなものかと菩薩たちに尋ねます。

すると菩薩たちが一人一人

 

「生ずることも滅することもないものです」

「自分という実体はないと知ることです」

「汚れたとか清らかという分別のなくなることです」

「善と悪は異なるものではないと知ることです」

「在家と出家の区別のない世界です」

「輪廻と涅槃は異なるものではないと知ることです」

 

このようにたくさんに菩薩がそれぞれ答えを述べると、最後に文殊菩薩はこう言いました。

「皆さんが言われたことは、それぞれもっともなことです。ですが、言葉に表した時点で、それはもう悟りから離れてしまいます。本当の悟りというのは、言葉を離れた説くことのできないものだからです」

 

そして維摩に対して

「私たちは、それぞれ自分の意見を言いました。ぜひ、あなたのお考えを教えてください」

と言いました。

 

その時、維摩は、かたく口を閉じて沈黙したまま一言も言葉を発しませんでした。

 

それに対して文殊菩薩は

「すばらしい。悟りというのは言葉を離れた世界ですから、あなたの答えこそもっとも正しい」

と称讃しました。

これを「維摩の一黙、雷のごとし」といわれます。

 

このように文殊菩薩は、そのすぐれた智慧によって、言葉を離れた悟りの世界を教え、苦しみ悩む人々を、その世界へ導こうとされている菩薩なのです。

2019/04/22

文殊菩薩(4)

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文殊菩薩を祀るお寺

文殊菩薩像は、どこのお寺に祀られているのでしょうか。ここでは、国宝や重要文化財となっている文殊菩薩を祀る寺院を紹介します。

 

文殊菩薩の立体像

日本の三文殊といえば

    奈良県の安倍文殊院(阿倍の文殊)

    京都府の智恩寺(切戸の文殊)

    山形県の大聖寺(亀岡文殊)

となっています。

 

他にも

    奈良県の法隆寺の木造立像、塑像

    奈良県の室生寺の木造立像

    奈良県の海龍王寺の木造立像

    大阪府の孝恩寺の木造立像

    奈良県の興福寺の木造坐像

    京都府の仁和寺の木造坐像

    京都府の大智寺の木造坐像

    奈良県の西大寺の木造騎獅像

    奈良県の宝珠院の木造騎獅像

    奈良県の圓證寺の木造騎獅像

    奈良県の額安寺の木造騎獅像

    福島県の薬王寺の木造騎獅像

    京都府の教王護国寺の木造、聖僧文殊像

    京都府の法金剛院の木造僧形文殊像

    滋賀県の善水寺の木造僧形文殊像

    奈良県の文殊院の木造文殊四脇侍像

    京都府の智恩寺の木造文殊 善財童子優闐王像

    和歌山県の遍明院の木造文殊侍者像

    高知県の竹林寺の木造文殊五使者像

などが有名な文殊菩薩像です。

(木像というのは木で彫った像、塑像とは粘土で作った像です)

 

次は絵画です。

 

    和歌山県の宝寿院の絹本著色図

    奈良県の西大寺の絹本著色図

    滋賀県の延暦寺の絹本著色図

    京都府の高山寺の絹本著色図

    京都府の宝寿院の絹本七髻文殊菩薩図

    京都府の東福寺の絹本釈迦文殊普賢三幅図

    京都府の醍醐寺の絹本文殊渡海図

    大阪府の叡福寺の絹本文殊渡海図

    京都府の南禅寺の絹本墨画聖僧文殊図

    京都府の本法寺の紙本墨画文殊寒山拾得図

このような文殊菩薩の絵画があります。

 

特に、京都府の醍醐寺の絹本文殊渡海図(国宝)は圧巻です。

 

文殊菩薩は、大きな獅子の上に趺坐し、頭には五髻を結び、右手に剣、左手に蓮華を持っています。獅子の前には善財童子が先導し、右の優填王は獅子をひき、左には錫杖を持った仏陀波利、後ろには仙杖を持った最勝老人がしたがっています。そして、全体が雲に乗って大海原を渡るという雄大な構図です。鎌倉時代の傑作として国宝に指定されています。

 

善財童子というのは、『華厳経』の最後の「入法界品」で、文殊菩薩に菩薩道について尋ね、その指南によって旅に出た人です。

 

(「絹本」というのは、絹に描かれているということです。それに対して「紙本しほん」の場合は紙に描かれています)

 

文殊菩薩の特徴─なぜ獅子に乗っているの?

このように文殊菩薩の特徴として、立体像でも絵画でも、獅子に乗っている場合があります。立像や坐像などもありますので、必ず獅子に乗っているというわけでもありませんが、獅子に乗っていれば文殊菩薩と分かります。

ではなぜ、文殊菩薩は獅子に乗っているのでしょうか?

それは、獅子というのは、智慧を表すからです。慈悲を表す象に対して獅子は智慧を表すので、智慧の菩薩である文殊菩薩の乗り物とされているのです。

 

文殊菩薩と普賢菩薩の違い

文殊菩薩は、お釈迦さまの脇侍です。

そして、もう一人のお釈迦さまの脇侍は普賢菩薩です。

ですから釈迦三尊像では、お釈迦さまに加えて文殊菩薩と普賢菩薩が脇侍となっています。

では文殊菩薩と普賢菩薩は、どこが違うのでしょうか。

 

それは、お釈迦さまの智慧を表すのが文殊菩薩で、慈悲を表すのが普賢菩薩ということです。ですから乗り物についても、文殊菩薩は智慧を表す獅子に、普賢菩薩は慈悲を表す象に乗っています。文殊菩薩と普賢菩薩には、そのような違いがあります。

2019/04/21

文殊菩薩(3)

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文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」といわれるように、智慧の菩薩です。

それに対して普賢菩薩は慈悲の菩薩で、共にお釈迦さまの脇侍です。

 

文殊菩薩とは

文殊菩薩とは、どんな菩薩なのでしょうか?

まずは簡単に仏教の辞典を確認してみましょう。

 

文殊菩薩

<文殊>はサンスクリット語 Mañjuśrīの音写<文殊師利(もんじゅしり)>の略で、<曼殊尸利(まんじゅしり)>などとも音写する。原語の訳は<妙吉祥(みょうきちじょう)><妙徳(みょうとく)>など。

 

初期の大乗経典、とくに般若経典においては、むしろ仏に代わるほどにさかんに活躍し、般若=智慧を完全にそなえて、説法をおこなう。そのほか各種の大乗経典でも、諸菩薩を主導する例が多い。

 

空に立脚するその智慧が文殊菩薩の特性であり、これから<文殊の智慧>の語が由来する。観世音菩薩などとは異なり、純粋に仏教内部から誕生した菩薩である。

 

なお、中国東北部の旧称の満州は、この菩薩名にちなむといわれる。また毎年7月8日には、特に文殊菩薩を供養する<文殊会え>が催される。

(引用:『岩波仏教辞典』第三版)

 

このように文殊菩薩は、文殊師利(もんじゅしり)が本名です。文殊師利法王子などともいわれ、特に『般若経』では文殊菩薩を相手に説かれる場合がたくさんあります。それというのも、文殊菩薩は非常に智慧がすぐれているからです。

 

このように、仏教辞典には文殊菩薩について簡単に説明されているので、この記事では分かりやすく詳しく解説していきます。

まず、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、どういう意味でしょうか。

 

三人寄れば文殊の知恵の意味

文殊菩薩は、智慧の菩薩といわれます。智慧というのは、単に知識があるとか、理解が深いという意味ではありません。智慧は、仏教では非常にすばらしい力を表します。

 

智慧とは?

文殊菩薩は智慧の菩薩ですので、「三人寄れば文殊の知恵」ということわざになっています。

「三人寄れば文殊の知恵」といえば、あまり頭が良くなくても3人も集まれば文殊菩薩のようなすぐれた知恵が出るものだ、という意味だと思ってはいないでしょうか。国語辞書などではそういうこともよく言われますので、ほとんどの場合そのように使われています。つまり、1つの知恵が3つ集まって3倍になる、という考え方です。ですが、3人集まるといい知恵が出るというのは、実際には別の要素があります。

 

1人の知恵だと、偏りが生まれます。もし独りよがりで間違っていても、気づかないのでひどい結果になりかねません。誰かに尋ねてみるのは大切なことです。

 

ところが2人の知恵になると、対立してまとまらない可能性が出てきます。また2人だけなら、共謀して悪いことをすることもあります。

 

それが3人になると、お互いに牽制し合って割合バランスのいいアイディアが出てくる、ということです。ですから、3人集まると単なる知恵の和ではなくて、よりよい相乗効果が生まれます。それを「三人寄れば文殊の知恵」といわれるのです。

 

文殊菩薩を説かれるお経

文殊菩薩は、どんなお経に説かれているのでしょうか?

それは以下をはじめとする、たくさんのお経に説かれています。

 

『大無量寿経』

『観無量寿経』

『阿弥陀経』

『法華経』

『華厳経』

などの有名なお経はもちろん

『央掘魔羅経』

『心地観経』

『雑譬喩経』

『涅槃経』

『大集経』

『道行般若経』

『内蔵百宝経』

『阿闍世王経』

『文殊師利問菩薩署経』

『首楞厳三昧経』

『維摩経』

『宝積三昧文殊師利菩薩問法身経』

『慧印三昧経』

『魔逆経』

『須真天子経』

など

その他、たくさんのお経に説かれています。

 

文殊菩薩はどんな人、実在した?

文殊菩薩は、どんな人だったのでしょうか。

まず、「菩薩」とは、「菩提薩埵(ぼだいさった)」のことです。「菩提」というのは仏のさとり、「薩埵」は人なので、仏のさとりを求める人を菩薩といいます。まだ仏のさとりを開いていないので仏さまではありませんが、仏のさとりを目指して努力している人です。

 

仏(如来)と菩薩と神の違い

その菩薩の中でも、文殊菩薩は特にすぐれた菩薩です。文殊菩薩を文殊師利法王子ともいわれますが、「法王」とは仏のことです。二度と崩れることのない高い悟りを開いた菩薩を「法王子」といわれます。他の菩薩にも「法王子」はあるのですが、皆文殊菩薩にゆずって、文殊菩薩が文殊師利法王子といわれるのです。それほどの菩薩が文殊菩薩です。

 

『文殊師利般涅槃経(もんじゅしりはつねはんぎょう)』には、文殊菩薩は舎衛国(しゃえいこく)の多羅聚落のバラモンの子だと説かれています。非常に頭がよく、仙人の元を訪ねて出家の法を求めますが、文殊菩薩の先生になれるような人がなかったために、最後にお釈迦さまにめぐりあって出家したと教えられています。

 

『維摩経』では、維摩居士との問答が説かれていますし、『華厳経』では、お釈迦さまのあまりにすごいご説法に参詣者はみんな耳も聞こえず口も聞けないような状態になりましたが、文殊菩薩と普賢菩薩だけは分かっている様子だったと教えられています。

ですから、文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」といわれるように、非常に智慧のすぐれた人で、お釈迦さまの時代に実在した人です。

 

文殊菩薩の功徳やご利益は知恵の増加?

文殊菩薩は、多くの寺院で祀られています。一体、どんな功徳やご利益があるとされているのでしょうか。

 

『文殊師利般涅槃経』によれば、文殊菩薩は貧しく孤独で苦しんでいる人の姿で、行者の前に現れると説かれています。それによって泰善(たいぜん)(758-827)は、貧しい人に施しをすることが文殊菩薩の供養になると考えて、貧しい人に施しをする文殊会(もんじゅえ)を始めました。そして泰善は、太政官に国で文殊会を行って欲しいと申請し、泰善の死後828年から行われるようになりました。こうして、苦しむ人を救うための文殊会が公式につとめられるようになったのでした。

 

ところが、それがだんだんと変化していきます。

室町時代から江戸時代になると、授福増慧を願って文殊菩薩に奉納された絵馬がたくさん発見されています。幸せを願い、智慧が増えることを願っていたということです。

こうして文殊の知恵といわれることから、頭が良くなる功徳があると考え、今では学業成就、つまり入試の合格といったご利益を願うようになったのです。

ちなみに密教では、文殊菩薩に関連して、除疫延命など、災いをなくす息災法が行われます。

2019/04/20

文殊菩薩(2)

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サンスクリット語ではマンジュシュリーという。漢訳仏典では妙吉祥菩薩、文殊師利法王子などと表記される。前者は意味を訳したもの、後者は読みを漢字で再現したものである。

 

「三人寄れば文殊の知恵」のことわざにあるように智慧の菩薩として知られる。ただ学業などの知識の分野は虚空蔵菩薩の領分であり、文殊菩薩は“苦境を脱する閃きと判断力”を授ける役割を担っている。わかりやすく砕いて言うなら、虚空蔵は雑学・文殊はパズルにそれぞれ強いのだ。

 

『文殊師利般涅槃経』において、祇園精舎のあった舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモン家系の出身という現実的な出自を与えられ、大乗仏典の編纂に関わったという伝承も存在する。こうした具体性のある位置付けのためか、他の菩薩衆と異なりモデルとなった人物がいたかもしれないと言われている。

 

道元が中国で学んでいた時の記録『宝慶記』によると小乗経は阿難(アナンダ)が、大乗経は文殊菩薩が結集を行った、とある。このほか文殊菩薩が大乗仏典の結集に参加したとする文献としては『大智度論』(般若経典の一つ『大品般若経』の注釈書)などがある。日本においても『教時諍』(天台宗の僧・安然の著作)や『浄土法門源流章』(華厳宗の僧・凝然の著作)が、この伝承をとりあげている。文殊菩薩のほか、弥勒菩薩も大乗の結集に参加した菩薩として挙げられる。

 

図像表現

普賢菩薩とともに釈迦三尊の一人として釈迦如来の脇侍をつとめる。仏の智慧を象徴する利剣と経典(お経、経巻)を持ち、獅子に乗った姿で描画・作像されることが多い。青蓮華を持ち、その上に経典を載せる、というパターンも多い。漢訳仏教圏では唐獅子に似たデザインで、チベット仏教の文殊菩薩像が乗るライオンもそこまでリアルではない。この獅子は赤い体毛をしていることが多い。

 

髪の毛を結った数によって性質に違いがあり、個別の髻(まげ)の数に基づいて違う目的のために修法がなされる。まげの数別に、一髷文殊=増益、五髷文殊=敬愛、六髷文殊=調伏、八髷文殊=息災である。まげの数ごとに真言も異なり、その数の字からなる陀羅尼が唱えられる。このことから、それぞれの別名を一字文殊、五字文殊、六字文殊、八字文殊ともいう。中でも五髻文殊は他の文殊の本体とされ、その五髻は五智五仏をあらわすともされる。

 

その他の姿

聖僧文殊

禿頭の一般的な仏僧の姿をした文殊菩薩。獅子の上に座し、手は定印を結ぶ。禅の伝統において重んじられ、この形式の文殊菩薩像が僧堂の本尊として中央に安置される。

 

稚児文殊

高貴な身分の稚児の姿をした文殊菩薩。服装だけでなく、髪型も俗人としての貴人の子女のそれであるが、獅子に乗り、剣と経典を持つという基本的要素は共有している。春日大社の南にある摂社、春日若宮神社の祭神「天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)」の本地仏としての姿ともいう。

 

五台山文殊

中国仏教における文殊菩薩の聖地の名を冠する文殊菩薩。優填王(うてんおう)、仏陀波利三蔵(ぶっだばりさんぞう)、善財童子、大聖老人の四人を眷属として引き連れる(文殊菩薩も入れて「文殊五尊」という)。このメンバーを連れて海を渡る構図も有名で「渡海(とかい)文殊」とも称する。

 

佛としての文殊

文殊菩薩は観世音菩薩同様、「菩薩」でありながら同時に「如来(仏)」としての特性を持つ尊格である。『首楞嚴三昧経』においては、遠い過去に龍種上如来という仏であったと語られる。法華経の注釈書『法華文句記』では、龍種上尊王佛、『阿弥陀経』の注釈書『阿弥陀経』などでは龍種上尊王如来とも呼ぶ。『菩薩瓔珞経』では、遠い過去における仏としての名は大身如来とされる。龍種上、という名のほうが仏典における使用頻度は多い(大身如来の名は「大正新脩大蔵経」収録のテキストでは『菩薩瓔珞経』のみに見られる)。

 

『央掘魔羅経』では釈迦の口から、北方の四十二恒河沙利(恒河沙=ガンジス川の砂、の意でとてつもなく膨大な数の単位)の彼方に「常喜」という仏国土があると語られ、その主の名は歓喜蔵摩尼宝積如来とされ、彼は文殊師利その人だとされる。『大宝積経』の「文殊師利授記会」(5860巻)の箇所では、未来に普見如来という仏になると予言される。

 

チベット仏教における文殊菩薩

チベットには、もともと文字が無かったとされる。観世音菩薩の化身とされるソンツェン・ガンポ王の作とされる埋蔵経典(テルマ)『摩尼全集』によると、ソンツェン・ガンポ王の時代、文殊菩薩はトンミ・サンボータという賢人として地上に現われた。王から旅費を渡された彼はインドに渡り、バラモンから文字を学んだあと、108人の学者たちから大乗の教えを学んだという。彼は知識だけでなく膨大な仏教典籍を持ち帰り、ソンツェン・ガンポ王に文字と共に伝えたとされる。そして彼は仏典をチベットの言葉に翻訳したという。

 

大乗仏典の結集に文殊菩薩(マンジュシュリー)が関わったとする伝承は、チベット仏教にも存在する。 『プトゥン仏教史』では普賢菩薩(サマンタバドラ)、弥勒菩薩(マイトレーヤ)、金剛手菩薩(ヴァジュラパーニ)と共に「根本結集者」として挙げられる。結集には百万の菩薩が参加したとされるが、彼等はその代表という事になる。

 

マイトレーヤは律(戒律に関わる部分)を、グヒヤカディパティ(ヴァジュラパーニ)は経(スートラ、お経)をマンジュシュリーはアビダルマ(経と律についての理論的考察、研究)についてまとめたという。文殊菩薩はゲルク派開祖ツォンカパの前に現れ、彼を導いたと伝わっている。

 

なお、中国の清朝の皇帝のチベットの統治者/チベット仏教徒の支配者としての称号は「文殊皇帝」であり「満洲族の民族名の由来は文殊菩薩」という伝説も有る。

2019/04/19

文殊菩薩(1)

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、梵名マンジュシュリー(梵: मञ्जुश्री, maJjuzrii)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。一般に智慧を司る仏とされる

 

文殊は文殊師利(もんじゅしゅり)の略称。また妙吉祥菩薩(みょうきっしょうぼさつ)などともいう。曼殊室利等とも音写し、妙吉祥、妙徳、妙首などとも訳す。文珠菩薩とも書く。 三昧耶形は青蓮華(青い熱帯睡蓮の花)、利剣、梵篋(椰子の葉に書かれた経典)など。種子(種子字)はマン (maM)

 

『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。この教説に基づき、維摩居士と相対した場面を表した造形も行われている。

 

文殊菩薩は、やがて『維摩経』に描かれたような現実的な姿から離れ、後の経典で徐々に神格化されていく。釈迦の化導を扶助するために菩薩の地位にあるが、かつては成仏して龍種如来、大身仏、神仙仏などといったといわれ、また未来にも成仏して普見如来という。あるいは現在、北方の常喜世界に在って歓喜蔵摩尼宝積如来と名づけられ、その名前を聞けば四重禁等の罪を滅すといわれ、あるいは現に中国山西省の清涼山(五台山)に一万の菩薩と共に住しているともいわれる。また『法華経』では、過去世に日月燈明仏が涅槃した後に、その弟子であった妙光菩薩の再誕が文殊であると説かれる。

 

なお、これらはすべて大乗経典における記述によるものであり、文殊菩薩が実在したという事実はない。しかし文殊は観世音菩薩などとは異なり、モデルとされた人物が存在していたと考えられており、仏教教団内部で生まれた菩薩であると考えられている。

 

文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。ここでは釈迦仏に代って般若の「空(くう)」を説いている。また文殊菩薩を「三世の仏母(さんぜのぶつも)」と称える経典も多く、『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれるなど、これらのことからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。

 

過去世において、文殊菩薩は龍種上尊王仏という仏だったともされる。また、すでに樹種上尊王仏という仏に成っているともされる。

 

文殊菩薩が、優填王、仏陀波利三蔵、善財童子、大聖老人(あるいは最勝老人=婆藪)の四尊ともに描かれた文殊五尊図は、中国・日本などでよく描かれた。

 

文殊菩薩の五使者として、髻設尼、烏波髻設尼、質多羅、地慧、請召、が挙げられる。文殊菩薩の八童子として、光綱、地慧、無垢火、不思議、請召、髻設尼、救護慧、烏波髻設尼が挙げられる。

 

文殊菩薩の密号は、吉祥金剛、あるいは般若金剛とされる。

文殊菩薩を描いた主な経典には、文殊師利般涅槃経、文殊師利問経、文殊師利浄律経、伽耶山頂経などがある。また、文殊師利発願経、文殊悔過経、文殊師利現宝蔵経、仏説文殊師利巡行記、妙吉祥菩薩所問大乗法羅経、千鉢文殊一百八名讃、大聖文殊師利菩薩讃仏法身礼、聖者文殊師利発菩提心願文、文殊師利菩薩無相十礼などがある。

 

像容

普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍となる(参照:釈迦三尊)ほか、単独でも広く信仰されている。

 

文殊菩薩像の造形はほぼ一定している。獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つ。密教では清浄な精神を表す童子形となり、髻を結う。この髻の数は像によって一、五、六、八の四種類があり、それぞれ一=増益、五=敬愛、六=調伏、八=息災の修法の本尊とされる。

 

また、騎獅の文殊、先導役の善財童子、獅子の手綱を握る優填王、仏陀波利、最勝老人を従える文殊五尊像も造形された。

 

また禅宗においては、修行僧の完全な姿を表す「聖僧」(しょうそう)として僧堂に安置され、剃髪し坐禅を組む僧形となる。この場合、文殊もまた修行の途上であるとの観点から、菩薩の呼称を避け文殊大士(だいし)と呼ぶことがある。

 

日本における作例としては、奈良の興福寺東金堂の坐像(定慶作、国宝)や安倍文殊院の五尊像(快慶作、国宝)、高知の竹林寺の五尊像(重要文化財)などが見られる。

 

文殊渡海図(鎌倉時代、醍醐寺蔵、国宝)獅子上の蓮華座に坐す文殊菩薩(五髻文殊)を眷属4名(優填王、仏陀波利三蔵、善財童子、大聖老人)とともに描く。

 

受容

中国の娯楽小説『封神演義』には普賢真人、文殊広法天尊という仙人が登場しており、彼等が後に仏門に帰依しそれぞれ普賢菩薩、文殊菩薩となったという設定になっているが、これは後世の全くの創作である。

 

中国においては、山西省の五台山が文殊菩薩の住する清涼山として古くより広く信仰を集めており、円仁によって日本にも伝えられている。

 

また中国天台宗系の史書である『仏祖統紀』巻29には「文殊は今、終南山に住み給えり。杜順和上はこれなり」と、中国華厳宗の祖である杜順を文殊菩薩の生まれ変わりであるとしている。

 

清の皇帝はチベットからは文殊菩薩の化身と見なされていた。清の支配民族である満洲人の民族名となったマンジュは、よくサンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来すると言われているが、実際は不明である。元来は16世紀までに女真と呼ばれていた民族のうち、建州女真に分類される5部族(スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェン)の総称であった。岡田英弘はダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを乾隆帝が利用したことから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている。。

 

平安時代初期に、勤操や泰善らの僧侶が文殊菩薩の法要と貧者や病者のための施しを行う「文殊会」を始め、最初は私的な催しだったものが、朝廷の援助を得るようになり、8287月、太政官符によって文殊会を行うようになった。毎年七月八日、朝廷が一定の税収から文殊会の費用を拠出し、東寺・西寺を中心に盛んに行われ、貧者や病者に対する布施が盛んになされた。このことは、日本の福祉の歴史においても重要な一幕と言えるが、律令国家の没落とともに文殊会も衰退し、やがて行われなくなった。それを鎌倉時代に復興したのが、西大寺の叡尊・忍性らであった。

 

鎌倉時代、真言律宗の僧叡尊・忍性は深く文殊菩薩に帰依し、1240年以後、各地で文殊供養と大規模な非人布施を行った。