口語訳:この天皇が沙本毘賣命を妻としていたとき、彼女の兄、沙本毘古王がその妹に
「お前は夫と兄と、どちらが愛しいか」
と聞いた。
沙本毘賣命は
「兄の方が愛しいですわ」
と答えた。
すると沙本毘古王は
「お前が本当に兄を愛しく思うなら、お前とオレとで天下を治めてやろうじゃないか」
と言った。
すぐに八鹽折の紐小刀を造り、妹に与えて
「天皇が眠っている隙に、この刀で刺し殺せ」
と言った。
天皇はそんな謀計があるとは知らず、その后の膝を枕にして眠っていた。
そのとき、后は刀で天皇の頸を刺そうと、三度振りかざしたが、悲しみに耐えきれず、刺すことができなかった。涙がが溢れて落ち、天皇の顔を濡らした。
天皇はすぐに目を覚まし、その后に
「今、変な夢を見た。沙本の方から激しい雨が起こってきて、私の顔を濡らしたんだ。それに小さな蛇が私の頸の周りに巻き付いていた。こんな夢だが、何か意味があるんだろうか」
と聞いた。
后は、言い争うわけにも行かないと観念して
「私の兄、沙本毘古王が私に聞いたんです。
『夫と兄と、どちらが愛しいか』と。
面と向かって聞かれると逆らうこともできなかったので、思わず『兄さんです』と答えました。すると『オレとお前とで天下を治めよう。天皇を殺せ』と言い出して、八鹽折の紐小刀を造って私に渡しました。
たった今、あなたの頸を刺そうと、三度まで刀を振り上げましたけど、どっと悲しさがこみ上げてきて、とても刺すことはできませんでしたわ。涙が溢れて、あなたのお顔に落ちかかりました。きっとそのことを夢に見られたんですわ」
と答えた。
口語訳:天皇は
「私は危うく騙されるところだった」と言い、軍士を集めて、沙本毘古王を討とうとした。王は稲城を造って抵抗した。このとき沙本毘賣命は「私のせいで兄は死ぬんだわ」と思うと、いても立ってもいられなくなり、宮廷の後ろの門から逃げ出し、稲城の中に走り込んだ。このとき、皇后は子を孕んでいた。
天皇はもう三年もの間、その后をたいへん愛して重要な存在になっていたので、軍をいったん控えさせ、急には攻めないでいた。その間に時日が過ぎて、孕んでいた御子が生まれてしまった。そこで后はその御子を稲城の外に置いて、人に
「この子を天皇の御子とお考えなら、どうぞお育てください」
と言わせた。
天皇は、兄こそ憎んでいたが、皇后はまだ愛していたので、ぜひ取り返したいと考えていた。そこで軍士のうちから、力が強く、動きの素早い者を選び出して
「あの子を受け取るときに、その母后も取り戻せ。髪であれ、手であれ、取ることができたら、そのまま引き出して連れてこい」
と命じた。
ところが后は天皇がきっと自分の身柄を取り戻そうとすると考えて、髪をすっかり剃り落とし、それで鬘を作って頭に被った。また玉の緒を腐らせて、手に三重に巻き付け、酒で衣を腐らせて、それを正常な服のように着ていた。そうやって準備して、御子を胸に抱いて稲城の外に差し出した。
力士たちは御子を受け取ると、今だとばかり后の身柄を取ろうとした。ところが髪を掴むとすっぽりと脱け落ち、手を取ろうとすると、玉の緒がことごとくちぎれてしまい、衣を掴もうとすると、破れ去ってしまった。その結果、御子を取ることはできたが、母后はまた稲城のうちに逃げ込んでしまい、取り戻すことができなかった。
軍士たちは帰ってきて
「髪は抜け落ち、衣は簡単に破れ、手に巻いた玉の緒もちぎれてしまいました。だから御后を取り返すことができませんでした」
と詳しく報告した。
天皇はたいへん歎き恨んで、その玉を作った人たちを憎むあまり、彼らの土地をすべて取り上げてしまった。それで諺に「ところ得ぬ玉作り」と言うのである。
口語訳:天皇は(稲城の内にいる)皇后に
「子供の名は母が付けるものだ。この子になんと名を付けるのだ」
と尋ねたところ
「いま稲城に火を放っているとき、その火中で生まれたから、『本牟智和氣の御子』と名付けたらいいでしょう」
と答えた。
次に「どんな風に育てたらいいのだ」と尋ねると
「養母を付けて、大湯坐と若湯坐を定めて育てたらいいでしょう」
と答えた。
そのため、皇后の言った通りにして育てた。
また天皇は
「あなたが締めた下帯の紐を、あなたの他に誰が解くんだ」
と尋ねると
「丹波の比古多多須美智宇斯王の娘で兄比賣、弟比賣の二人は、清らかな娘ですから、この二人を召しなさい」
と答えた。
その後、遂に沙本比古王を殺したが、その妹(后)もそれに従って死んだ。
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