2019/04/18

玉垣の宮上巻【垂仁天皇上】(1)

口語訳:伊久米伊理毘古伊佐知命は、師木の玉垣の宮で天下を治めた。この天皇が沙本毘古命の妹、佐波遲比賣命を娶って生んだ子は品牟都和氣命である。<一人。>

また旦波の比古多多須美知能宇斯王の娘、冰羽州比賣命を娶って生んだ子は、印色之入日子命、次に大帶日子淤斯呂和氣命、次に大中津日子命、次に倭比賣命、次に若木入日子命の五人である。またその冰羽州比賣命の妹、沼羽田之入毘賣命を娶って生んだ子は、沼帶別命、次に伊賀帶日子命の二人である。

またその沼羽田之入日賣命の妹、阿邪美能伊理毘賣命を娶って生んだ子は、伊許婆夜和氣命、次に阿邪美都比賣命の二人である。また大筒木垂根王の娘、迦具夜比賣命を娶って生んだ子は、袁邪辨王である。<一人。>

また山代の大國之淵の娘、苅羽田刀辨を娶って生んだ子は、落別王、次に五十日帶日子王、次に伊登志別王の三人である。またその大國之淵の娘、弟苅羽田刀辨を娶って生んだ子は、石衝別王、次に石衝毘賣命、またの名は布多遲能伊理毘賣命の二人である。

この天皇の御子は、全部で十六人だった。<男十三人、女三人。>

 

○倭比賣命(やまとひめのみこと)。【世人はこの「比賣」の「比」を濁って読むが、間違いである。この記で清音であることは明白だ。】名の意味には取り立てて言うことはない。この天皇の妹に「千々都久倭姫命【また弟に倭日子命】というのもある。この比賣は、古語拾遺に「天皇の第二皇女、母は狹穂姫」とある。異なる伝えだ。【書紀には母の氷羽州比賣命を丹波から娶ったのは十五年のこととしており、その第四子とすると、十八年か十九年頃の生まれと思われるが、そうすると廿五年に天照大御神を託された時には、まだ七、八歳以下という計算になり、年が合わない。これを考えると、母は狹穂姫という方が正しいように見える。しかし全体に書紀の年紀は、拠り所にならないことが多いので、古語拾遺の説は一つの異伝としておくべきだ。

 

書紀の年紀が信じがたいというのは、たとえば景行天皇は六十年に百六歳で崩じたと言うから、垂仁天皇の五十四年に生まれたことになるが、その妹のはずの倭姫命が廿五年に生まれているのはどういうことか。また十五年に娶った氷羽州比賣命は、五十四年にはもう七十歳にもなっていたはずだが、それから子を生んだとはどうしたことか。書紀にはこのように年紀の食い違いが多い。

 

倭姫命世記という書物には、崇神天皇の五十八年のところでこの比賣のことを書いている。それは偽書だから論ずるまでもないが、書紀神代巻の口决に

「大倭姫命は垂仁天皇の娘である。ある日、箱の中に小さな虫が入っていた。それが化して人となった」

と言い、またある書物には

「開化天皇の手箱に物があった。小さな虫が蠢いているようだった。ところがよく見ると、人の顔をしていた。天皇が不思議に思って養っておくと、成長して美女になった。これが倭姫命である」

など、みな信じられないことだ。また口决で「雄略天皇の御世に五百歳で大神宮に奉仕していた」というのも、上記の「世記」に基づいたでたらめだ。】

 

口語訳:大帶日子淤斯呂和氣命は、後に天下を治めた。<その身長は一丈二寸、脛の長さは四尺一寸あった。>

次に印色入日子命は血沼池を作り、狹山池を作り、また日下の高津池を作った。また鳥取の河上の宮に住んで、横刀一千口を作らせ、これを石上神宮に奉納した。

そこでその宮で河上部を定めた。

 

口語訳:次に大中津日子命は、<山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國の三野別、吉備の石无別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟禮之別らの先祖である。>

次に倭比賣命は、<伊勢大神宮を拝祭した。>

次に伊許婆夜和氣王は、<沙本の穴太部之別の先祖である。>

次に阿邪美都比賣命は、<稻瀬毘古王に嫁いだ。>

次に落別王は、<小月之山君、三川の衣君の先祖である。>

次に五十日帶日子王は、<春日山君、高志池君、春日部君の先祖。>

次に伊登志和氣王は、<子がなかったので子代として伊登志部を定めた。>

次に石衝別王は、<羽咋君、三尾君の先祖。>

次に布多遲能伊理毘賣命は、<倭建命の后となった。>

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