2019/09/01

プラトン(11) ~ 国家篇の問題(2)



プラトンは「個人」と「国家」を平行させているといっておきましたが、ここでの哲学者というのは個人の場面に直すと「理性」ということになるのです。「哲人王とは理性だけの人間」なのです。ですから、現実の人間は「哲人王」なんかになれっこありません。「理性だけの人間」なんていませんから。

 繰り返しますが、『国家』篇の内容は、要するに「理性のみによって、すべてが支配される在り方」を描いているのです。確かに、ある意味で理想とはいえるでしょう。特に、個人の場面に返したらそうなります。感情・欲望が理性に支配され、勇気や恥の心も理性に合致しているというのは理想です。しかし、これが国家に適用されたら感情を高ぶらせる仕事、音楽や芝居は追放され、欲望にかかわる職業、商人だの何だのは必要最小限度に(これでは「商売」にならないでしょうけれど)、勇気を体現すべき兵士はいいとして、君主ときたら本当は雑務なんかに関わることなく真理そのものを楽しんでいたいのに、感情的職業や欲望的職業を見張ってコントロールするため、イヤイヤ政務につくという具合になるのです。

しかし大事なことなのですが、こうして初めて現実が見えてくるのです。プラトンは、ただ夢心地に理想の国を描いていたわけではないのです。ここに見られた国家の有り様を現実の国家にダブらせた時、いろいろはみ出てくるところがみえて、その「はみ出し具合」や「はみ出す原因」も見えてくるだろうということで、考察しているのです。

こういった立場から、有名な三つのパラドックスの論などが出てきます。第一の論は「男性も女性も同等の教育がなされ、同等の仕事につくべきだ」とする論です。これは現代的意味での男女同権思想というより、女性も理性を持っているとみなされたからで、そして「女性も理性において劣るところはない」とプラトンは見ていたからです。これは、しかし大事な思想でしたが、残念ながらプラトンが蘇った近世においても、この思想は握りつぶされています。男性社会に都合が悪かったからでしょう。

この当時の古代ギリシャでは、現実の女性は政治への参加など許されていない時代ですから、プラトン自身がこれを言うのにものすごい警戒をしています。そして、この当時の実際に合わせた社会の論(『法律篇』)を書いた時には、この思想は後退しています。「男女平等論」は、当時の現実にあまりにも合わないからです。しかし、この当時にそうした男女平等論が書かれたという事実に多大の関心を持つべきだと思いますが、それを今日まで論ずる人間が居ないということの方が、よっぽど問題です。

二つ目は「配偶者と子供の共有」という論です。これは現代人からみると酷い話に見えますが、それは人間の感情によっているわけで、ここでプラトンが試みている理性だけで見るという立場からすると、感情的・個人的な男・女の取り合いなんか感心しないとなってしまうのも分かります。理屈だけで言えば、優れた男が優れた女と一緒になり、優れた子どもがたくさん得られれば、それの方がいいに決まっている、という話になって不思議はありません。

要するに優性学的、そして効率のよい教育という観点だけでなされている議論だからです。もちろん、こうした話になったところで「現実の人間」というものが見えてくるわけで、動物は優生学的に見るのに、人間にはそうしないのは何故かという問題が浮かび上がってくるのです。

『国家』篇というのは、こんな態度で読まなければならないのですが、残念ながらこのようにプラトンを理解する人は殆どおらず、何か「現実的理想国家論」を書いていて、しかもとんでもない理論を展開していると思って、プラトンを批判している人が大半なのが不思議です。

三つ目が先に言及した、国の指導者はフィロソポス(哲学者)であるべきだという論だったのです。しかし、この哲人王には感情はなく、欲望もありません。「理性だけの人間」です。そして個人所有の財産もなく、小さい時から厳しい教育を受けさせられます。なんとも、こんな人間だけにはなりたくない、という人間像が出てきます。これも理性だけで物事を見ていったら、という前提からの論なのでした。

 しかし再三注意したように、これは現実を浮き立たせるためでした。つまりこうしてこそ、現実の様々の問題が見えてくるのです。プラトンの読み方というものを、私達はもう一度見直して見るべきでしょう。

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