2025/01/31

ミクロネシアの神話伝説(1)

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パラウ諸島に、テルケレルという英雄の伝説があります。マーシャルのエタオとか、ハワイ(ポリネシア)のマウイとは違って、こちらはいたってまじめな英雄のようです。また、この物語はパラウの伝統的な踊りやチャントで広く、長く語り継がれているものです。

 

【テルケレルの誕生】

かつて、ンジブタル(NGIBTAL)という小さな島が、パラウ本島のバベルダオブ島の少し沖にありました。ここにミラッドという、貧しいけれども大変聡明な女性が住んでいました。ある日のこと、彼女がタロ芋の収穫に出かけたときのことです。パンダナスの木に何かがひっかかっているのが見えました。よく見るとそれは大きな卵で、手にとって見ると何だか動いているようです。「これは食べるものではないわね、太陽の卵かも。」と彼女は判断し、大切に家に持ち帰ると、かごの中にそっと入れておきました。

 

3日の後、卵から、彼女の指ほどもない小さな子供が産まれてきました。ミラッドは子供に太陽の子、テルケレルという名前を付け、大切に育てました。テルケレルの成長は驚くほど速く、1年もすると普通の体格の聡明な少年に育ちました。

 

そんなある日、テルケレルはミラッドに

「どうしてうちではタロ芋しか食べないの?

それにいつもお腹が減るのはなぜ?」

と訊ねます。

 

「うちは貧乏だし、漁に出てくれる男の人もいないしね。まだお前に漁に出てもらうわけにもいかないし。」と、ミラッド。

「なんだ、そんなことだったら僕に任せてよお母さん」と、テルケレルは言うが速いか海に飛び込み、深く深く潜り、珊瑚の下へ、そして島の下へと潜り込み、ちょっとした細工をしました。

 

ミラッドの家の庭には大きなパンの木があったのですが、テルケレルはミラッドにこの木を切り倒すように言います。ミラッドは、怪訝に思いながらも言われたとおりに木を切ります。すると、どうでしょう、木の切り株には何と海につながる大きな空洞が空いており(これがテルケレルの細工だったわけです)波が来るたびに、切り株からいろんな魚が飛び出してくるではありませんか!

 

おかげでミラッドの家では食べ物に不自由することはなくなり、優しいミラッドは島の他の人達にも魚を分けてあげたので、みんなが豊かに暮らすことができました。

ところが、島の人達は、最初は感謝していたものの、やがてミラッドに対する羨望がうまれてきました。人々は、それぞれが自分の家の庭の木を切り倒しはじめたのです。

 

全ての木から海の水が吹き出た結果、島は大洪水になってしまい、助かったのは、素早く竹でいかだを組み上げたテルケレルとミラッドの親子だけでした。今でもバベルダオプ島の沖合には、水没したンジブタル島が水底に見えるそうです。

 

【テルケレルと石の神テムドクル】

男性だけの集会所「バイ」パラウには、男性だけが集える集会所「バイ」という施設があります。立派な若者に育ったテルケレルは、すでに人々のリーダーとなっていましたが、ある日のバイの集会で、テルケレルの結婚相手が話題に上ります。

「村の女達の中では、誰がお気に入りですか?」

などと、みんなが尋ねるわけです。テルケレルは

「僕は天上で花嫁を見つけてくるんだよ」と言います。

 

「え!普通、天上に行くには先ず死んでからですよ」

「いや、君たちも一緒に来たければ、単に僕の足跡のとおりについてくればいいんだ。」

 

というわけで、男達はテルケレルを先頭に、皆連れだって天上に出かけていきました。いよいよ天上のメインロードに差し掛かるとき、そこにはテムドクル、という大層立派な石の番人が立っていました。彼は決して眠らない大きな眼を持ち、怪しい者が通りかかると大きな口から大音響で天上の人々に、それを知らせるのです。「素晴らしい!」とテルケレル。「是非彼のような番人が欲しいものだ」

 

やがて彼らは天界の神ウチェルの宮殿に到達し、快く拝謁が許されます。そこにはチェリッドと呼ばれる精霊達と共に、とても美しい娘も座っており、彼女がまた愛想良く、みんなに微笑みかけてくれます。テルケレルは正直に、天上界の娘に結婚を申し込みに来たことを告げます。しかし、ウチェルが彼の顔をしげしげと眺めて言うには

「お前さんは普通の人間では無いな。半分は神だ。要するに、ここにいる娘の兄弟だということだ。というわけで、結婚を許すわけにはいかんわなあ。残念だが。」

 

テルケレル一行は、やむなく地上へと引き返すことにします。しかし、くだんのテムドクルにとても未練があったテルケレルは、宮殿に生えていた大きなパンダナスの葉でテムドクルをくるむと、それを抱えて大急ぎで地上に戻り、彼らの村、ンガレゲブクル(NGAREGEBUKL)のバイの前に安置しておいたのです。

2025/01/29

アッバース朝(2)

アッバース朝革命(英語: Abbasid revolution)は、8世紀にウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が成立した一連の過程を指す歴史用語である。軍事的には747年にイラン東部のホラーサーン地方で蜂起が始まり、749年に革命軍が革命運動の本拠地クーファに入城、アッバース家の人物をカリフに推戴した。翌年にダマスクスに進軍、ウマイヤ朝軍を破り終結した。アッバース朝革命の前後で、帝国の構造・社会・文化のありかたが大きく変容し、影響は単に支配家系がウマイヤ家からアッバース家に交替したにとどまらなかった。

 

研究小史

8世紀中葉、ウマイヤ朝からアッバース朝への王朝交替があったことは古くから知られていたが、この歴史的事件に人種主義的な意義づけを与えたのは19世紀末のヨーロッパである。オランダの東洋学者フロテンは、この事件が重税に苦しんでいたイラン人の支配者アラブに対する反乱であったと考え、事件の動因をイラン民族主義と、その表れであるシーア派思想に帰した。

 

ヴェルハウゼンは、このような「イラン民族主義説」を否定し、改宗非アラブのマワーリーの税制上の不平等に起因すると論じた。ヴェルハウゼンによると、革命軍の兵士たちの大半はメルヴ諸村のイラン人農民であるが、革命の指導層にはアラブもいたし、シーア派思想はイラン民族主義とは無関係に生じたものである。革命派のアラブもイラン人も、ともにカイサーン派の一分派であるハーシミーヤに属していたとした。

 

ヴェルハウゼンは1902年に発表した著作の中で、非アラブの改宗者を税制上差別したウマイヤ朝を「アラブ帝国」、改宗者の税制上の差別を撤廃したアッバース朝を「イスラーム帝国」と呼んだ。アラブ帝国ウマイヤ朝から、イスラーム帝国アッバース朝へというヴェルハウゼンの理論は、その後数々の修正を加えられながらも現在(少なくとも20世紀末)でも有効であると言われている。

 

背景

正統カリフの時代の後、661年に成立したイスラーム史上最初の世襲王朝、ウマイヤ朝の正統性には当初から疑問が抱かれていた。ハワーリジュ派と総称される反体制運動が絶え間なく続いた。ムアーウィヤが、それまでの慣例に反して世襲制を導入したことや、その結果即位した第2代カリフのヤズィード1世が、カルバラーでアリーの子イマーム・フサインを殺害したことなども、各方面からの非難を招いた。さらにウマイヤ朝はアラブ人を優遇し、非アラブ人はたとえイスラームに改宗したとしてもマワーリーとして差別され、ジズヤ(人頭税)の支払いを課せられていた。そのうえ歴代カリフのほとんどがイスラームの戒律を軽視し、世俗的享楽に耽ったことも厳格なムスリムたちに批判された。

 

ウマイヤ朝治下では絶えざる反乱や蜂起が続いていたが、743年に有能な第10代カリフ、ヒシャームが死去したことによって、王朝の衰勢は決定的なものとなった。

 

主要な要因としては、以下のものが挙げられる。

 

    南アラビア系アラブ人の子孫と、北アラビア系アラブ人の子孫の対立

    それを背景とした宮廷の内紛とカリフ位をめぐる争い

    無能なカリフの続出

    シーア派の影響力拡大と反体制運動の激化(ザイド派の反乱など)

    ウマイヤ朝の支配に対する非ムスリムやマワーリーの不満と、イラン人(ペルシア人)民族主義の台頭(シュウービーヤ運動)

 

こうした社会的混乱が広がる中に、預言者ムハンマドの叔父の末裔・アッバース一族が登場し、各地の不満分子を利用しながら自らの権力獲得を目指すことになる。

2025/01/25

アッバース朝(1)

アッバース朝(الدولة العباسيةal-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2のイスラム王朝(750–1258年)。ウマイヤ朝に代わり成立した。

 

王朝名は、一族の名称となった父祖アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(預言者ムハンマドの叔父)の名前に由来する。

 

概要

イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。

 

東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。

 

アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は、後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。

 

アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。

 

イスラム帝国という呼称は、特にこの王朝を指すことが多い。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。

 

歴史

ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の反発が広がった。このシーア派の運動は、ペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。

 

また、このほかにもアラブ人と改宗したペルシア人などの非アラブムスリムとの対立があった。ウマイヤ朝では非アラブムスリムはマワーリーと呼ばれ、イスラム教徒であるにもかかわらずジズヤ(人頭税)の支払いを強制され、アラブ人と同等の権利を認められなかった。この差別待遇はイスラムの原理にも反するものであり、ペルシア人などの間には不満が高まっていた。

 

ザーブ河畔の戦い

こうした不満を受けて、イラン東部のホラーサーン地方において747年に反ウマイヤ朝軍が蜂起した。反体制派のアラブ人と、シーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、7499月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバース(サッファーフ)を初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌7501月、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。ウマイヤ朝の王族のほとんどは残党狩りによって根絶やしにされたが、第10代カリフ・ヒシャームの孫の一人が生き残り、モロッコまで逃れた。彼は後にイベリア半島に移り、756年にはコルドバで後ウマイヤ朝を建国して、アブド・アッラフマーン1世と名乗ることとなった。

 

アッバース革命

シーア派の力を借りてカリフの座についたサッファーフは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。

 

弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)と、アラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。

 

アッバース朝は、ウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたこのような変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリーア(イスラム法)、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。

2025/01/23

ハワイ神話(3)

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タンガロアの世界創生

タヒチでは、タンガロア(ハワイで言うところのカナロア)は全ての神々の先祖でした。世界に空も海も太陽も何も無く、ただ闇だけが拡がっていたころ、タンガロアと彼が住む大きな貝殻だけがこの世界の全てでした。

 

タンガロアは無限の時間を経て目覚め、殻を破って外に出ました。まず顔を上に向け

「誰かいないか?」

と尋ねましたが、当然、何も応えません。次に下を向き、前を向き、後ろを向いて尋ねましたが、やはり何も応えません。

 

タンガロアはしばらく考え込んでいましたが、やがて腹が立ってきました。

「岩よ!」

と呼びかけます。

「こちらに来い!」。

しかし、そもそも岩などあるわけもなく、何も起こりません。

「砂よ!」

「風よ!」

と呼びかけますが、やはり何も起こりません。

 

タンガロアはいよいよ怒り、とうとう自分の住んでいた貝殻をゆっくり高く高く持ち上げました。それは大きな天の半球となり、空になりました。タンガロアは、それをルミアと名付けました。

 

その後、タンガロアは一休みしていましたが、しばらくすると落ち着かなくなり、何より1人でいるのに飽きてきました。そして貝殻の残りの半分を砕くと、おびただしい数の岩と砂ができました。しかし、まだまだ静寂が続いています。タンガロアは自分の命令を聞く者が、どこにもいないことに腹が立ってなりません。

 

仕方なくタンガロアは自分自身の中に入っていき、背骨を引き出して岩々の上に置いたところ、それは壮大な山脈となりました。彼のあばら骨はまだ背骨についたままでしたが、それは渓谷や断崖になりました。次に彼は内臓を引っぱり出し、天に投げました。それは白い雲となり、タンガロアの中にあったときと同様に、ときに水を蓄え雨を降らせたのです。

 

そして今度は筋肉を取り出し、それを使って大地を肥沃なものへと変え、動物や植物が育つようにしました。彼の脚や腕は大地を強固なものにし、海の中に滑っていかないようにしました。手足の指の爪からは、鱗や甲羅を持つ海の生き物ができました。

 

タンガロアはまた、鳥の羽のようなものをまとっていました。その羽をむしると、ブレッドフルーツとパンダナスになりました。このようにして、彼は緑色の根っこから水を吸う全ての植物を創り出したのです。彼の長い腸からは、エビやロブスターができました。

 

タンガロアはあまりに激しく働いたので、彼の血は熱くたぎりました。しかし彼の身体はほとんど空洞のようになっていたので、血はそのまま流れ出てしまい、ある部分は天に昇って朝焼けと夕焼けになり、ある部分は雲に隠れて虹になりました。こんにち、赤い色に見えるものは全て、このときにタンガロアの血から創られたのです。

 

タンガロアの頭は、まだ胴体の殻と共に残っていました。彼の身体は神聖なものなので、そのままでも生きていけたのです。とにかく、このときから世界に豊饒と肥沃さがもたらされました。

次に、タンガロアは天に住む神と地に住む神とを呼び寄せました。そして全ての準備が整った後、最後に人間を創造したのです。

 

このように、世界の始まりは貝殻でした。この貝殻から天空ができました。この貝殻は無限の広がりを持って、カーブを描いています。その中に神々は、太陽や月や惑星や恒星を創ったのです。こうも考えられます。大地は貝殻であって、その上を川が流れ、植物は貝殻に根を通して生えます。男の貝殻は女です。なぜならば男は女から生まれるからです。女の貝殻はやはり女です。貝殻の中、暗い闇の中にこそ命があり、変転を繰り返しながら生まれ出る時を待っているのです。

2025/01/21

トゥール・ポワティエ間の戦い(3)

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トゥール・ポワティエ間の戦い

イスラム軍はボルドーを攻略後、ポワティエのイレーヌ教会を略奪し、トゥールに進軍してきた。カール・マルテルはこれを迎え撃ち、7日にわたる激戦の末に撃退した。これがトゥール・ポワチエ間の戦いで、イスラムのヨーロッパ侵攻を食い止めた(732)

 

カロリング朝        

 戦いに敗れたとはいえ、イスラム軍は依然として南フランスを占領していた。カール・マルテルがプロヴアンス地方からイスラム教徒を追い払ったのは738年になってからで、息子のピピン3世がナルポンヌを奪回したのは759年だった。これ以降、イスラム勢力はイベリア半島に封じ込められた。

 

 カール・マルテルの死後、息子のピピン3(小ピピン)が宮宰になり、メロヴィング朝の最後の皇帝を廃して王位についた。こうしてカロリング朝(Karolinger)が始まった(751)。ローマ教皇ザカリアスは、このクーデターを承認した。

 

 北イタリアでは、ゲルマン人のランゴバルド王国がラヴェンナを攻撃しローマに迫ってきた。ピピン3世はローマ教皇の救援要請を受けてイタリアに出兵し、ランゴバルド王国を討伐した。そしてラヴェンナと、その周辺をローマ教皇に寄進した。これはピピンの寄進と呼ばれ、教皇領の起源となった。

 

ローマ皇帝の戴冠

 ピピンの子カール大帝(シャルル・マーニュ)が王位につくと、積極的に外征を行い領土を広げた。まずイタリアのランゴバルド王国を、続いてザクセンやアジア系のアヴァール王国(Avars)を征服し、西ヨーロッパを統一した。ピレネー山脈を越えて後ウマイア朝も攻撃したが、これは失敗した。この事件を題材とした物語がローランの歌である。そしてイスラムの再侵入に備え、フランスとスペインの間にスペイン辺境領を設置した。

 

 カールは国を多くの州に分け、各州に伯(はく)をおいて統治させた。伯は貴族の称号になった。また首都アーヘンに人材を集め、教育や文化を奨励した(宮廷学校)。この学校は各地の修道院に広がり、ラテン語の教育が盛んに行われた。

 

 フランク王国はビザンツ王国にならぶ強国となり、8001225日、カール大帝は教皇レオ3世によりローマ皇帝の戴冠を受けた(カールの戴冠)。ここに西ローマ帝国が復活し、民族の大移動以来、混乱していた西ヨーロッパに平和が訪れた。ローマ教会はビザンツ皇帝から独立し、やがてギリシア正教会とローマ・カトリック教会に分裂することになる(1054)

 

フランク王国の分裂

 フランク王国は王が死ぬたびに相続争いが起き、843年のヴェルダン条約で西、中部、東の3王国に三分割された。中部フランクは長男のロタールが国王となったが、彼の死後、東フランク王国と西フランク王国に併合された(メルセン条約:870)

 

 異民族の侵入は激しく、東からはマジャール人、北からはスカンディナヴィアに住むヴァイキング(ノルマン人:北の人)、南からはアラブ人(ムスリム)が王国を荒らしまくった。

 

 ノルマン人の侵入に手を焼いた西フランク王は、ノルマン人の部族長ロロをキリスト教に改宗させ、ノルマンディー地方に定住することを認めた(911年、ノルマンディー公国の誕生)。異民族の侵入を防ぐため、辺境防衛を担った貴族は勢力を伸ばし、王権は弱まった。

 

 やがて、東フランク王国では王を選挙で選ぶようになり、10世紀に王位に就いたザクセン家のオットー1世が戴冠して、神聖ローマ帝国皇帝となった(962)。西フランク王国でも、パリ伯ユーグ・カペーが王に選出され、カペー朝フランス王国が始まった(987)。イタリアでは、各地の諸侯や東フランク王がイタリア王位をめぐって争い国は乱れた。

2025/01/17

トゥール・ポワティエ間の戦い(2)

戦闘

宮宰カール率いるフランク王国連合軍は、騎兵の多いガーフィキーの軍隊に対し場所を選んだ。イスラム側の多くは騎兵であり機動力を発揮できないよう、丘や樹木などの地形とファランクスを上手く活用し防衛体制と整えた。歩兵と騎兵の戦闘ながら決着はつかず、7日間の小競り合いが続いた。イスラム側はフランク王国連合軍の主体が歩兵であることから、戦闘を楽観視していた。

 

トゥールとポワティエの間のクラン川と、ヴィエンヌ川の合流点で2つの軍が合流したと想定しており、両軍の兵士の数は不明。ラテン語資料である『754年のモサラベ年代記』においては、詳細な人数においては言及されていない。両陣営の動員数は当時の兵站を鑑みるに、フランク王国連合軍が15,000 - 20,000人。ガーフィキー率いるアル=アンダルス遠征軍が20,000 - 25,000人とされている。

 

歴史家のポール・K・デイヴィスは、1999年にイスラム教徒の軍隊を約80,000人、フランク王国連合軍を約30,000人と推定した。一方でエドワード・J・シェーンフェルト(Edward J. Schoenfeld)は、ウマイヤ朝の数が60,000-400,000とフランク王国連合軍が75,000の範囲であったという古い見積もりを拒否した。戦地の広さと、当時の補給事情を鑑みるに50,000人を超える兵数は運用できないと指摘した。テリー・L・ゴア(Terry L. Gore)は、フランク王国連合軍15,000 - 20,000人、イスラム教徒の軍隊を20,000 - 25,000人と見積もった。

 

最終日において、フランク軍がイスラム軍の略奪品の荷車などを襲撃した。人種・民族・宗教入り乱れるガーフィキーの軍では、戦利品の防衛と攻撃とで指揮系統が乱れた(当時の略奪品は、そのまま兵士たちの給料でもあった。また、イスラム側は家族を同伴していたことも理由である)、ガーフィキーは混乱した自軍をまとめようとして、前に出たところを矢で射られ死亡した。ガーフィキーの死亡は『754年のモサラベ年代記』でも言及されている。

 

イスラム側の記録によると、ガーフィキーの死後に有力者たちで会議を行ったが意見が纏まることは無く、夜の内に撤退したという。(ガーフィキーはイスラム側では、民族や文化の垣根を越えた優秀な指導者であったと評価されている。)

 

フランク王国連合軍は、後日の攻撃に備えて直ぐには武装解除しなかった。

 

影響

このフランク人の勝利は、ムハンマドの死から100年後にあたり、しばらくの間、ピレネー山脈を超えてフランス王国領内にアラブ人が侵入するという深刻な脅威を終わらせた。この勝利により、宮宰カールは「マルテル」の称号を得て「カール・マルテル」と呼ばれるようになる。そしてこの戦いによって、フランク王国内における地位を確固たるものとした。アウストラシアの宮宰出身であったカール・マルテルの息子小ピピンは教皇を味方につけ、メロヴィング朝を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。小ピピンは息子に王位の世襲を行わせたため、小ピピンの息子であるカールが王位についた。これが有名なシャルルマーニュことカール大帝(800年にフランク・ローマ皇帝として戴冠。)である。

 

ヨーロッパにおいては、キリスト教圏の防衛と中世の始まりから評価が高い戦いとなっている。キリスト教圏の防衛という一事と、カール・マルテルがフランク王国内で絶対的な地位を確立し、それが後のシャルルマーニュに繋がってヨーロッパの礎になったことによる評価が大きい。また、エドワード・ギボンも自著『ローマ帝国衰亡史』の中で高く評価している。

 

一方、イスラム側ではそこまで大きい評価はされていない。イスラム圏からすれば小さい小競り合いという印象の評価である。事実上、アル=アンダルスとアキテーヌ公の問題にカール・マルテルが介入したことから「領主の小競り合い」、あるいは「略奪による富が目的」だったなどヨーロッパ側の評価とは著しく異なる。

 

備考

SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世の暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類にとって決定的な不幸の一つ」と評している。

2025/01/12

トゥール・ポワティエ間の戦い(1)

トゥール・ポワティエ間の戦い(フランス語: Bataille de Poitiers、アラビア語: معركة بلاط الشهداء)は、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いと呼称することがある。

 

その後も735 - 739年にかけてウマイヤ軍は侵攻したが、カール・マルテル率いるフランク王国連合軍により撃退された。

 

名称

英語では「Battle of Tours(トゥアー(トゥールの意)の戦い)」、アラビア語では「معركة بلاط الشهداء(マウラカト・バーラト・アル=シュハーダ(殉教者の道)の戦い)」と呼ばれる。イスラム教徒側の呼称の由来は、14世紀モロッコのマラケシュの歴史学者イブン・イダーリーの歴史書「アル=バヤーン・アル=マグリブ(البيان المغرب في اختصار أخبار ملوك الأندلس والمغرب、略称バヤーン(بيان ))」に由来する。同書のアンダルスの歴史の中で、イブン・ハイヤーンの資料から

「アンダルシアの支配者であるアブド・アッ=ラフマーン・イブン・アブドゥッラーフ・アル=ガーフィキー(以下、ガーフィキー)はローマ人の土地に侵入し、ヒジュラ暦115年に「殉教者の道(بلاط الشهداء)」として知られる場所で、彼の軍隊と殉教した。」

という記述があることによる。イブン・ハイヤーンは戦いの地で、アザーンが長い間聞かれるようになったと語っている。

 

背景

イスラム世界初の帝国であるウマイヤ朝は、第10代カリフのヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの時代で比較的安定していた。第6代カリフのワリード1世の時代に進行したイスラム軍は、アンダルス(現スペイン)を支配下に置いた。この征服に対し、現地のキリスト教領主たちは対抗し小競り合いが絶えなかった。シャリーア(イスラム法)のジズヤを貢納することで信仰の自由は認められていたものの、アラブ人とそれに追従したベルベル人、そして現地のキリスト教徒たちは相容れない生活を送っていた。またアラブ人が直轄する街ではイスラム色が濃く、問題も発生していた。

 

アル=アンダルスのワーリーであったアッ=サム・イブン・マリク・アル=ハウラーニーが、トゥールーズの戦いでヨーロッパへの領土拡張を行っている。トゥールーズの戦いでは、アキテーヌ公のウードの活躍により勝利した。

 

この戦いでハウラーニーは重傷を負い、まもなく亡くなった。しかしイスラム勢力の脅威が消えた訳ではなく、緩衝地帯に位置するアキテーヌには常に不安があった。

 

この後、ウード大公が自分の娘(おそらく名前はランペジア)をアル=アンダルスの副知事であるムヌザ(サルデーニャのムヌザ:カタルーニャの領主、ベルベル人)に嫁として送った。ウード公と和睦することで、アキテーヌを緩衝地帯とする目的があったと思われる。しかし、新たにアル=アンダルス総督に任命されたガーフィキーから、反乱を企てているとムヌザは疑われることになる。対するメロヴィング朝フランク王国の宮宰であるカールも、イスラム国家と通じることを良しとせず、アキテーヌへと侵攻した。

 

730年(ヒジュラ暦112年)にワーリーに任命されたガーフィキーは 、サルデーニャで独立政権を打ちたてようとしたムヌザを攻撃した。彼は殺され、妻(ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレムへと送られた。ウード公は援軍を送りたかったが、不信を買った宮宰カールと交戦中でできなかった。

 

ウード公も宮宰カールに敗れ、アキテーヌは没収された。その後、ピレネー山脈を越えてウード公の領地であるアキテーヌへと侵攻するガーフィキー率いるイスラム勢力を、領土を失ったウード公と家臣たちは、ガロンヌ川の戦い(ボルドーの戦い)で対決する。ウード公の軍を破って、アキテーヌ北部まで侵攻し略奪を行った。

 

だが、ウード公は逃げ延び体制を建て直すため、宮宰カールへと救援要請を行った。イスラム勢力の侵攻を知った宮宰カールはウード公を自軍の右翼に組み込み、他の領主たちを集めてフランク連合軍を組織。トゥールとポワティエ間にある平野で、アル=アンダルス総督であるガーフィキー軍と衝突することになった。

2025/01/11

源信(3)

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15才、天皇に説法

源信は良源の期待に応え、学問では比叡山で一二を争うほどになります。

その上、頭が良いだけでなく、修行もすばらしいもので、源信の評判はついに時の村上天皇にまで聞こえたのでした。やがて天皇から「宮中で『称讃浄土経』を講義せよ」といわれます。

『称讃浄土経』とは、『阿弥陀経』の異訳のお経です。鳩摩羅什の翻訳した『阿弥陀経』に対して、玄奘が翻訳したのが『称讃浄土経』です。

 

当日、源信が宮中に赴くと、目もくらむような清涼殿で、天皇を始め、たくさんの大臣たちが参詣しています。源信はそこで、弁舌さわやかに『称讃浄土経』を講義したのでした。

その堂々たる熱意と、講義の深さ、分かりやすさは、並みいる天皇や貴族をことごとく感嘆させ、源信は、その場で「僧都(そうず)」の位と、美しい衣をはじめとするたくさんの褒美の土産をもらったのでした。

 

母親の厳しい戒め

若くして時の天皇からほめられた源信僧都は、有頂天になりました。

お母さんにも教えてあげたら、きっと喜んでくれるだろうと、もらった褒美の品々をお母さんに贈って、手紙で報告したのでした。

 

ところが、お母さんの反応は意外なものでした。しばらくすると、すべての褒美の品々が送り返され、

「後の世を 渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき」

という歌が添えられていたのでした。

 

「後の世」というのは、後世とか後生ともいいます。この後世について蓮如上人は、『御文章』にこう教えられています。

 

それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす。

たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり。

(御文章五帖)

 

「八万の法蔵」というのは、お釈迦さまが説かれた一切経です。それだけではなく、この世のすべての知識が八万の法蔵に入ります。八万の法蔵を知る人というのは、何を聞いても答えられる人です。

普通はそういう人は賢い人です。ところが「愚者」というのは、愚か者ということで、バカのことです。何を聞いても適切に答えられるバカがいる。それはどんな人かというと、仏教では、後世が分からない人は、愚か者だということです。

 

「一文不知」というのは、本を読もうと思っても読めない人です。そんな文字が読めない人でも、後世を知る、後生明るい人が智者だと言われています。その後世を知らない愚者を、後世を知る智者にするのが、僧侶のつとめです。

 

「後の世を渡す橋」というのは、後生明るくなるように教える僧侶のことです。私がお前を比叡山にやったのは、後の世を渡す橋になれよと思ってのことなのに、世渡る僧となってしまった。何と悲しいことだろうか。迷いの人間からほめられて喜んでいるようでは、お前は何という情けない者になってしまったのだ。

 

このような歌の意味を、源信僧都はすぐに分かったのでした。そして深く反省した源信僧都は、天皇からの褒美の品はすべて焼き捨て、後生の一大事の解決一つのために修行に打ち込むのでした。

 

27才、源信僧都の聞法

源信僧都は無常をみつめ、一切経を5回もひもとき、小乗仏教も大乗仏教も、大乗仏教では華厳宗も法相宗も天台宗も真言宗も極めたのですが、後生の一大事の解決はできません。むしろ燃え盛る煩悩が知らされるばかりで、悪しかできない自己の姿に泣かされるのでした。

 

やがて27才のとき、こんな自分を導く先生はおられないものかと、比叡山を下りて各地を探し回ります。その時、源信僧都は、当時、大日如来が天照大神となって現れていると信じられており、奈良の大仏が建立される時も聖武天皇が仏の心を聞いたと伝えられる伊勢神宮に、7日間参籠したのでした。

 

すると7日目の明け方、夢に貴い女性が現れて、

「阿弥陀如来に向かうように」とのお告げを受けます。

 

空也との出会い

その後、源信僧都は、空也(くうや)も尋ねます。空也は源信僧都より39才年上で、もう60代でした。

当時、常に南無阿弥陀仏を称えながら、町中を巡り歩き、橋を架けたり井戸を掘るような社会貢献もして、民衆に人気がありました。その空也に個人的に会いに行ったのです。

 

源信僧都は、空也に尋ねます。

「私は心から浄土往生を願っているのですが、私のようなものでも浄土へ生まれられるのでしょうか」

 

ところが空也はこう言います。

 

「私のような無知な者にどうしてそんなことがわかるでしょうか」

 

「では、私はどうすればいいのでしょうか」

 

「もし智慧がなかったとしても、浄土往生を願う心がまことならば、阿弥陀如来はどうして放っておかれるでしょうか」

 

こうして源信僧都は、比叡山に帰り、30才頃には、比叡山の奥の横川に隠棲し、ひたすら後生の一大事の解決を求めたのでした。

 

30才、横川の僧都

横川というのは、20年以上前、夢にみたところでした。比叡山の根本中堂よりもさらに北へ5.5キロにあります。その横川の中堂である首楞厳院(しゅりょうごんいん)に移ったので、親鸞聖人は源信僧都のことを「首楞厳院」とか、「楞厳の和尚」いわれることがあります。

その後は、恵心院(えしんいん)に移ったので、恵心僧都ともいわれます。また、紫式部の『源氏物語』に出てくる、横川の僧都のモデルになったともいわれます。

 

こうして源信僧都は横川に入り、34才の時に仏教の論争のために山を下りて、2人論破した以外は、ひたすら後生の一大事の解決一つに打ち込んだのでした。そしてついに、七高僧の5番目の善導大師の指南により、阿弥陀如来の本願に救われたのでした。

 

このことを親鸞聖人は『正信偈』に、源信僧都がこうおっしゃっているといわれています。

 

我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)

煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)

大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

(正信偈)

 

これは、『我もまた彼の摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう』といえり」と読みます。

 

「我もまた摂取のうちにある」というのは、「我」は源信僧都のことです。

「摂取」というのは、阿弥陀如来の摂取の光明のことで、阿弥陀如来のお力です。阿弥陀仏のお力によって、私も死ぬと同時に浄土へ往ける絶対の幸福に救われた、ということです。

ところが、絶対の幸福に救われても、欲や怒りの煩悩は少しも変わりません。

 

「煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども」というのは、煩悩が邪魔して、肉眼で阿弥陀如来を見ることはできないけれど、といわれています。ですが、阿弥陀如来に救われてからは、夜昼常に阿弥陀如来の大慈悲に守られ、浄土往生は間違いなしの絶対の幸福に生されているのだ、というのが

 

「大悲ものうきこと無くして常に我を照らしたまう」ということです。

 

このように、阿弥陀如来の本願に救いとられた源信僧都は、生きている時に絶対の幸福に救われる、平生業成の教えを明らかにされているのです。

2025/01/10

ハワイ神話(2)

ペレ (Pele) は、ハワイに伝わる火山の女神。ペレホヌアメア(「聖なる大地のペレ」の意)、ペレアイホヌア(「大地を食べるペレ」の意)、ペレクムホヌア(Pele-kumu-honua、「大地の源」の意)という呼び名でも知られている。

 

ハワイの神々の中ではもっとも有名とされ、炎、稲妻、ダンス、暴力などを司るとされる。美しく情熱的だが気の荒い女性で、嫉妬や怒りから人々を焼き尽くすとして畏怖の対象とされている。またペレの好物とされる特定の食物(オヘロと呼ばれる野苺の一種など)を食べることは、カプとして固く禁じられている。

 

ポリネシア神話に連なる神々の中で、ペレは特にハワイで広く信仰された。

 

ロヒアウとペレ

ペレはある夜に魂となってカウアイ島に赴き、美貌の王子ロヒアウと出会った。2人は互いに一目惚れした。ペレは妹のヒイアカを差し向けてロヒアウを迎えに行かせたが、ヒイアカの進むのが遅く、到着したのはペレを待ち続けたロヒアウが死んだ後だった。しかしロヒアウの魂がまだ近くにいたため、ヒイアカはロヒアウの父王が催したフラの宴を継続させ、その間にロヒアウの蘇生を図り、彼の魂を肉体に戻して生き返らせた。この過程でロヒアウとヒイアカは互いに惹かれ合うようになっていた。

 

ハワイ島に戻ったヒイアカとロヒアウはペレの怒りの炎を浴びたため、ヒイアカは無傷だったがロヒアウは焼死した。その後、ヒイアカはロヒアウを再び蘇生させ、カウアイ島で暮らしたと言われている。この物語はあまり知られていないことから、フラの特定の流派だけに伝わっていたと考えられている。

 

雪の女神ポリアフとペレ

マウナケア山に住む雪の女神ポリアフはペレとは対立関係にあり、2人はしばしば争った。ある時の戦いでは、ペレの流す溶岩をポリアフが雪を降らせて冷やしたため、溶岩が固まって火口を覆ってしまい、海へ流れ出す溶岩の量も減って海水で冷やされた。こうして溶岩台地のラウパーホエホエが形成された。

 

豚神カマプアアとペレ

ペレたちが暮らすキラウエア山の火口に豚神カマプアアが現れると、2人は戦いを始めたが、ペレの流す溶岩をカマプアアは呪文の力で止めてしまった。ペレらは和解して彼を家族として迎え入れ、ペレとカマプアアは夫婦となった。しかし2人はしばしば火山の噴火と海水による洪水によって争った。カマプアアは海水でペレをキラウエア火山の火口に追い詰めたが、ペレの叔父である地底の神ロノマクアが種火を彼女に与えたため、再び噴火を起こして形勢を逆転した。しかし最後にはペレが破れたともされる。2人は和平を結び、ハワイ島を分けて支配した。風上の湿ったコハラなどの地域がカマプアアのものとなり、プナ、カウ、コナなど風下の乾燥した地域がペレのものとなったという。

 

2人の間には息子オーペル・ハアア・リイがおり、彼はハワイの王族と平民の祖先とされるが、別の説では幼い頃に死んだとも、魚のムロアジ(ハワイ語で「オーペル」)になったともされている。その後カマプアアが海の底の国の王女と結婚したため、ペレは彼に戻ってきてほしいと歌を歌ったとも言われる。

 

カマプアアとペレの愛憎に満ちた関係は、ハワイで「Aia Kaʻuku」というメレ(歌)に歌われている。

 

民話でのペレ

ある日2人の少女がパンの実を焼いていると、飢えた老婆が分けてほしいと懇願してきたため、年下の少女だけが老婆にパンを分けた。去り際に老婆は年下の少女に、山で間もなく異変が起こることを告げた。帰宅した少女からこのことを聞いた祖母は、老母の正体がペレだと考え、老婆の言ったとおりに10日間タパの切れ端を玄関に掛けておくこととした。

 

数日後、山が炎を吹き上げ、その噴煙の中には若い美しい女の姿があった。少女は女の目が老婆の目とそっくりだと気付いた。村は流れ出した溶岩に覆われたが、少女の家だけは溶岩が避けていったため、少女と家族はペレに感謝した。

 

カメハメハ大王とペレ

カメハメハ1世(大王)が、ハワイの全諸島を統一し支配すべく戦争を続けていたさなかの1790年に、キラウエア火山が最大の爆発を起こした。その際、カメハメハの敵であるケオウア・クアフウラの軍勢が、ヒロからカウへの移動中にちょうど火山の噴火口にさしかかっており、爆発によって軍勢が全滅した。この出来事は、ペレがカメハメハに助力したためだと信じられたという。

 

キリスト教化後のペレ信仰

アメリカ、フランス、イギリスといった国々のキリスト教各宗派がハワイなど太平洋の島々で宣教を始めたのは18世紀末からで、19世紀半ばにはハワイのキリスト教化(英:Christianization)は概ね終了した。それに先立つ1819年に、即位したばかりのカメハメハ2世によって、カプと呼ばれる古くからの禁令制度が廃止された。カプによって生活上さまざまな拘束を受けていた人々がこれを受け入れたことで、神官は拒絶され、神殿は破壊され、宗教的な儀式は中止された。

 

人々は古来の神々への信仰からもアウマクア(祖先神)信仰からも離れて、キリスト教やその後にハワイに入ってきた他の宗教に移っていった。しかし女神ペレだけは、彼女が住むとされるキラウエア火山の存在感の大きさによって信仰を失うことはなかったという。

 

キラウエア火山の火口から30kmほど離れたワイオケレ・オプナの原生林での地熱発電の開発計画が持ち上がった時、「ペレ・ディフェンス・ファンド(英: Pele defense fund、ペレ防衛基金)」が反対運動を起こしている。ペレ・ディフェンス・ファンドの参加者は、キラウエア火山の噴火とは姿を変えたペレであり、キラウエア火山の地熱を利用することはペレの生命力(マナ)を侵す行為だと主張した。ハワイでの地熱発電は、こうした宗教的な理由によって推進しにくいものとなっているという。

 

ハワイ島のブラック・サンド・ビーチには、溶岩が細かく砕かれた黒い砂が広がっているが、こんにちでも、島からこの砂を持ち出すとペレの祟りがあると信じられている。

2025/01/08

レコンキスタ(5)

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レコンキスタの開始

 西ゴート王国が滅亡しても、その家臣ペラーヨ(Pelayo)はカンタブリア山脈に逃れて抵抗を続けた。彼はアストゥリアス王国を建国してレコンキスタを開始した。722年には押し寄せてきたイスラム軍をコバドンガの戦い(Covadonga)で破り、イスラム軍に対して初めての勝利をつかんだ。

 

 3代目のアルフォンソ2(760842年)の時に、星に導かれた羊飼いがキリストの弟子ヤコブの墓を発見した。そこがサンティアゴ・デ・コンポステーラでローマ、エルサレムと並ぶ巡礼地となった。レコンキスタの機運は一気に高まり、首都をオビエド(Oviedo)に移して南のドゥエロ川流域に進出していった。

 

 次のガルシア1世は首都をレオンに移し、アストゥリアス王国をレオン王国に改名した(910)。レオンはナバーラやカスティーリャの支援を得て、イスラム軍と激しい戦いを繰り広げた。しかし、常に劣勢で一時はイスラム軍に国内を蹂躙された。その後、レオン王国はカスティーリャ・レオン王国となり、さらにカスティーリャ王国となった。

 

小王国乱立

 後ウマイヤ朝の滅亡後、小王国に分裂したイスラム勢力は、絶えず紛争を繰り返した。そのためイスラムの結束は弱まり、キリスト教国に対する軍事的優位も失われていった。1085年、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世はトレドを攻め落とした。トレドの陥落は、イスラム小王国に深刻な打撃を与え、彼らは北アフリカのムラービト朝に援助を求めた。

 

 1086年、ムラービト王ユースフ(Yusuf:ヨセフのアラビア語読み)はイベリア半島に渡り、サグラハス(サラカ)の戦い(Sagrajas/Zalaca)でアルフォンソ6(AlfonsoⅥ)を破った。そして、分裂した小王国を征服してアル・アンダルスを統一した。

 

エル・シッド

 イスラム王ユースフに敢然と立ち向かったのが、カスティーリャ王アルフォンソ6世の臣下エル・シッド(El Cid)である。彼はアルフォンソに嫌われて追放されたが、彼を慕う多くの兵士とともにバレンシアを攻め、イスラムから奪還した(1094)。しかし、5年後にエル・シッドが他界すると、バレンシアは再びイスラム軍に占領された。

 

 エル・シッドとは、アラビア語の「わが主」という意味で、ムーア人が彼の勇敢さを讃えて付けた名前である。彼の本名はロドリーゴ・ディアスという。

 

【ムーア人(moor)】北アフリカのイスラム教徒のことでベルベル人を指す。スペインではモーロ人と呼ぶ。大航海時代にフィリピンでイスラム教徒と出会ったスペイン人は、彼らをモロと呼んだ。

 

ムラービト朝からムワッヒド朝へ

 ユースフが亡くなるとムラービト朝は衰退し、1118年にはアラゴン王国にサラゴサを奪われた。モロッコ国内ではイスラム改革運動(ムワッヒド運動)が始まり、ムラービト朝に代わってムワッヒド朝が興った(1147)。この混乱期にアル・アンダルスは再びグラナダ、マラガ、バレンシアなどの小王国に分立した。キリスト教軍は勢いを取り戻し攻勢を強めた。

 

 これに対して、北アフリカを統一したムワッヒド朝がイベリア半島に進出し、反撃を開始した。第3代アミールヤアクーブ・マンスールは、カスティーリャのアルフォンソ8世を破り、アル・アンダルスの大部分を手中におさめた(1195)。またもや、レコンキスタは頓挫した。

 

 13世紀になるとムワッヒド朝は衰え、カスティーリャは反撃に出た。1212年、カスティリャ、アラゴン、ナバラ、ポルトガル、宗教騎士団からなるキリスト教連合軍はトレドに集結した。そして、ラス・ナバス・デ・トロサ(Las Navas de Tolosa)の戦いでイスラム軍に壊滅的な打撃を与えた。ムワッヒド王は命からがらモロッコに逃れ、以後イベリア半島のイスラム勢力は後退の一途をたどることになった。

 

レコンキスタの進展とポルトガル

 ムワッヒド朝がイベリア半島から撤退すると、アル・アンダルスは再び権力の空白地帯となり、ムルシア、バレンシア、グラナダなどのイスラム王国が乱立した。これらの王国は、キリスト教軍に個別に撃破されていった。レコンキスタは最終局面に入った。

 

 1236年にコルドバが、1238年にはバレンシアが陥落、1244年にムルシア、1248年にセビリャが攻略された。カスティーリャ・レオン王国から独立したポルトガルは、1147年にリスボンを奪還し、1249年までに国内のイスラム勢力を全て追い払った。

 

 イベリア半島のイスラム勢力は、グラナダのナスル朝を残すのみとなった。ナスル朝はカスティーリャ王国に臣従する形で国を存続させていた。

2025/01/07

源信(2)

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源信僧都の生い立ち

源信僧都は、今から1082年前、平安時代の中頃の942年に、大和国(今の奈良県)の当麻(たいま)という里にお生まれになりました。

お父さんを卜部正親(うらべまさちか)といい、お母さんは、清原氏でした。2人の間には、女の子が2人あったのですが、男の子は生まれませんでした。

 

ある晩、お母さんは、僧侶から美しい玉を手渡される夢を見ました。

その後、玉のような男の子が生まれ、「千菊丸(せんぎくまる)」と名づけました。それが後の源信僧都です。千菊丸は正直な性格で、ずば抜けて賢く、すくすくと育っていきました。

 

7才、お父さんの死

ところが、7才の時、お父さんが重い病にかかります。

もう回復の見込みはないと覚悟したお父さんは、千菊丸を枕元に呼んで、

「幼いそなたを残して、この世を去らなければならないのは残念でならない。お父さんの亡き後は、どうか出家して僧侶になってもらいたい、これは遺言だ」

と言って、帰らぬ人となったのでした。

 

くもった鏡の夢

千菊丸が9才になったある晩、いやに鮮明な夢を見ました。

あるお寺のお経のおさめてあるお堂に、たくさんの鏡がありました。そこへ忽然と僧侶が現れて、くもった鏡を手に取り、

「お前のは、これだ。これを持って横川(よかわ)に行き、磨き上げてこい」

と言います。その鏡を受け取ったところで目が覚めました。

 

お母さんに話すと、

「鏡は智慧をたとえたものでしょう。お前はまだ智慧が暗いから、横川というのはどこか知らないけれど、そこへ行って仏道修行をして磨いてみよ、ということでしょう」

と教えてくれたのでした。

 

旅の僧侶を言い負かす

その後まもなく、事件が起きます。

ある日、友達と河原で遊んでいると、1人の旅の僧侶が川の水で鉄の鉢を洗い始めました。

それを見た千菊丸は、

「お坊さん、あっちにもっときれいな川がありますよ」

と教えてあげました。

 

にっこりと笑って、旅の僧は、

「元来すべてのものは浄穢不二(じょうえふに)じゃ。この水はきれいだとか、この水は汚いというのは、凡夫の迷いなのじゃ」

 

すると千菊丸は、

「それならどうしてお坊さんは鉢を洗っているの?」

と素朴な疑問を発しました。

 

これには唖然として、旅の僧は、答えることができませんでした。

千菊丸はそんなことは関係なく、もう向こうにいって小石を拾って遊び始めています。

 

旅の僧侶は、子供に言い負かされたとなると、そのまま帰るわけにはいきません。

千菊丸のほうへ近づいて行き、

「坊や、そなたはたいそう利口な子供じゃのう。わしには一つ分からないことがある。

今、そなたが一つ、二つ、三つと小石の数を数えておるが、9つまでは『つ』をつけて数えるのに、なぜ十(とお)は『つ』をつけないのじゃ?」

 

「そんなの当たり前だよ、お坊さん。

五つの時に『つ』を2回使ったんだから、もう十の時には足りなくなったんだよ」

 

それを聞いた旅の僧侶は、あっと目を見張り、

「こんなに頭のいい少年は初めて見た。もし出家して仏道修行をすれば、偉大な高僧になるかもしれん」

ともう言い負かされた悔しさはどこへやら、喜びがこみ上げてきました。

 

旅の僧侶は、千菊丸にお母さんのもとへ案内してもらい、自分の師匠である良源(りょうげん)について、比叡山に出家してはどうかと勧めたのでした。

お母さんは、突然の話にびっくりしましたが、父親の遺言でもあり、卜部家の後継者であったにもかかわらず、出家に同意したのでした。

 

9才、出家

数日後、良源からの使者がやってきました。

いよいよ旅立ちの日です。

 

お母さんは、

「今日からそなたは、比叡山に登って、仏門に入るのじゃ。立派な僧侶になるまで帰ってきてはならぬ」

と、父が肌身離さず大切に持っていた『阿弥陀経』を持たせ、涙の中に送り出したのでした。

千菊丸も、泣く泣くお母さんやお姉さんたちと別れを告げ、使者に連れられて、比叡山に登ったのでした。

 

13才、受戒・法名は源信

良源というのは、後に比叡山の座主になる人で、良源僧正とか、慈慧大師といわれ、天台宗中興の祖とされる有名な僧侶です。

 

良源は、千菊丸を一目見るなり、そのたぐいまれな才能と仏縁の深さを見抜きました。輝くまなこはいかにも利発で、その中に一抹の憂いを秘めています。

さっそく良源は厳しく指導を始めました。身の回りの世話をさせながら、僧侶の心構えや仏教の教えをみっちりと教え込みます。それは非常に厳格なものでしたが、千菊丸は、良源も舌を巻く勢いで習得していったのでした。

 

そのすばらしい成長ぶりに、やがて千菊丸が13才になると、良源は戒律を授け、自分の字を一字とって「源信」という法名を与えたのでした。

2025/01/04

レコンキスタ(4)

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イスラムのイベリア半島進出

 シリアのイスラム帝国(ウマイヤ朝)は東ローマ帝国からエジプトを奪還し、西方のマグリブ(日が没するところ:チュニジア、アルシェリア、モロヅコなどの北アフリカ)に向かって進撃を開始した。698年にカルタゴを占領、707年にはモロッコを制圧した。

 

 711年、ウマイヤ朝のアフリカ総督ムーサーは、分裂状態にある西ゴート王国の攻略を決断し、部下のターリクにイベリア半島進出を命じた。ターリクは7000人の部隊を率いてジブラルタルに上陸、迎え撃つ西ゴート軍をグアダレーテ川付近で撃破した。この戦いで西ゴート王ロドリーゴは戦死し、勢いに乗ったイスラム軍は、トレドやコルドバ、ムルシアを攻略した。

 

 翌年、ムーサーは自ら18千の軍勢を率いてジブラルタルに渡った。数ヵ月かけてセビリアを攻略し、メリダやマラガを征服した。ムーサーはトレドでターリクと合流し、両軍はサラゴサ、タラゴーナ、バルセロナ、リスボンを制圧した。

 

【ジブラルタル】ジブラルタル海峡の入口にある岩山は、対岸のモロッコの山とともに「ヘラクレスの柱」と呼ばれた。ターリクがイベリア半島に侵入すると、この岩山はターリクの山(ジャバル・アル・ターリク)と呼ばれ、それがジブラルタルになった。ジブラルタルはスペイン継承戦争後イギリス領となり(1713)、今日に至っている。

 

アル・アンダルス

 わずか数年で、カンタブリア山脈とピレネー山脈を除くイベリア半島の大部分がイスラムの支配下となり、アル・アンダルス(al-Andalus)と呼ばれるウマイア朝の属州が生まれた。首都はコルドバにおかれた。勢いに乗るイスラム軍はピレネー山脈を越えてフランスに進出した。フランス南部を制圧し、ツールを目指して北上するイスラム軍をフランク王国のカール・マルテルが迎え撃った(732年、トゥール・ポワティエ間の戦い)。この戦いでイスラム軍は敗れ、破竹の進軍は止まった。

 

 ダマスカスのウマイヤ朝はアミールと呼ばれる総督をアル・アンダルスに派遣してイベリア半島を統治した。しかし、征服者のイスラム教徒は一枚岩ではなく、アラブ人とベルベル人の対立やアラブ人とシリア人の確執などがあった。そのため、アル・アンダルスの政情は不安定で、716741年の間に15人もの総督が交代した。

 

 アル・アンダルスの住民は、ほとんどがキリスト教徒だった。一部の住民はイスラム教に改宗したが、大半の住民は人頭税(ジズヤ)を払ってキリスト教を信仰していた。

 

後ウマイヤ朝

 750年、シリアで政変が起こり、ウマイヤ朝がアッバース朝に倒された。ウマイヤ朝の王族はことごとく殺されたが、ただ一人生き残ったアブド・アッラフマーン1世はモロッコ経由でイベリア半島に逃れた。彼は756年にコルドバでアミールを宣言し、ウマイヤ朝を再興した。これが後ウマイヤ朝である。後ウマイヤ朝は徐々に力をつけ、778年にはフランク王カール・マルテルの進入を撃退した。この戦いはローランの歌のモデルになった。

 

 929年、第8代アブド・アッラフマーン3(Abd ar-Rahman)は、自らカリフを名乗りイスラム世界の最高指導者であることを宣言した。彼の時代が王朝の最盛期で、北部のカスティリャやアラゴンなどのキリスト教国を圧倒し、エジプトのファテーィマ朝と北アフリカの領有権を争うなど活発な対外活動を行った。

 

 この頃、東方から多くの文化人がイベリア半島に移住し、ヨーロッパにサラセン文化を伝えた。首都コルドバは、バグダッドやカイロとともに文化の中心地で、メスキータと呼ばれる大モスクが建設された。コルドバで開花したイスラム文化は、後にラテン語に翻訳されてイタリアに伝わり、ルネッサンスの礎となった。

 

 栄華をきわめた後ウマイヤ朝も権力闘争によって衰退し、1031年に最後のカリフが廃位されて滅亡した。アル・アンダルスは、セビリア、トレド、サラゴサ、バレンシアなど約30のイスラム小王国に分裂した。

2025/01/03

源信(1)

源信は、平安時代中期の天台宗の僧。恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)と尊称される。天台宗恵心流の祖。学才に恵まれ、浄土教のみならず、因明、性相、天台など幅広い分野に亘って著作を残した。

 

生涯

※年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つため、旧暦(宣明暦)表示(歿年月日を除く)とした。

 

天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻に生まれる。幼名は「千菊丸」。父は卜部正親、母は清原氏。

 

天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。

 

天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業(=密教)を学ぶ。

 

天暦9年(955年)、得度。

 

天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。

 

母の諫言の和歌 - 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」

 

天元1年(978年)『因明論疏四相違略註釈』(いんみょうろんしょしそういりゃくちゅうしゃく)を著し、学僧として頭角を現す[2]

 

永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の撰述に入る。永観3年(985年)13日、良源は示寂。

 

寛和元年(985年)3月、『往生要集』を脱稿する。

 

寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。

 

寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退する。『大乗対倶舎抄』を著す。

 

寛弘3年(1006年)、あらゆる衆生が仏となれるとする一乗思想を説く『一乗要決』(いちじょうようけつ)を書き上げる。

 

長和3年(1014年)、『阿弥陀経略記』を撰述。

 

寛仁元年610日(101776日)、76歳にて遷化。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら亡くなった。

 

著作

『因明論疏四相違略注釈』3

『往生要集』3

『大乗対倶舎抄』14

『一乗要決』3

『阿弥陀経略記』1

『法華經義讀』1

『横川法語』

『観心略要集』(源信の名に仮託した後世の作とする説がある)

 

後世への影響

源信は日本の浄土教の祖と称され、良忍、法然、親鸞などに大きな影響を与えた。

 

浄土宗の開祖である法然は、源信の主著「往生要集」によって7世紀の唐の僧善導の浄土思想を知ることとなった。

 

浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚(げんしんかしょう)、源信大師と尊称される。

 

浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「行巻」の末尾にある偈頌『正信念仏偈』(『正信偈』)「源信章」で

 

「源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」

 

と源信の徳と教えを称えている。

 

また『高僧和讃』において、「源信大師」10首を作成し称讃している。

 

なお、紫式部の『源氏物語』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされる。

 

源信千年遠忌

2016年は源信千年遠忌に当たり、宗派の枠を超えて浄土宗と西本願寺が延暦寺(天台宗総本山)において法要を営んだ。また、源信千年遠忌を迎えたのに合わせ、20172月には天台宗総本山・延暦寺の座主を導師に浄土宗総本山・知恩院と浄土真宗本願寺派本山・西本願寺において法要が営まれることとなった(天台宗最高位の座主が両寺で法要を営むのは史上初)。

 

往生要集(おうじょうようしゅう)は、比叡山中、横川(よかは)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、13巻からなる。

 

死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。また、この書物で説かれた、地獄極楽の観念、厭離穢土欣求浄土の精神は、貴族や庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。

 

一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑想を通じて行う自己の肉体の観想と、それを媒介として阿弥陀仏を色身として観仏する観想念仏という難行について、多くの項が割かれている。

 

また、その末文によっても知られるように、本書が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、唐末五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆される。

2025/01/01

ハワイ神話(1)

創世神話

ハワイ先住民の宗教での創世神話は、ハワイ王朝年代記である『クムリポ』(ハワイ語で「起源」の意味)に語られている。ハワイ王家に代々口承で伝えてきた2102行からなる叙事詩で、カラカウア王が1889年に公表し、ハワイ王朝が終焉したのちの1897年に英訳されて、世界的にも有名になったもの。

 

その内容は16部に分かれていて、前半の8部が「闇の世界」で、宇宙の始まりから、渾沌の世界から「夜の暗黒」ポーエレ(Boggart)と「根源の闇」クムリポ (Kumulipo)が現れ、交わって生物が創造された。原初の生物が誕生して、海の生物が誕生する。

 

後半8部は「光の世界」で、カナロア、カネなどの神々が誕生して、ハワイ諸島とハワイ人の誕生、ハワイ王族の系譜へと続く。

 

ハワイ諸島とハワイ人の誕生神話

ハワイ神話では、大地をつかさどる女神「パパハナウモク」(国を産むパパ)と天空をつかさどる男神「ワケア」が結ばれて、ハワイ島、マウイ島、カホオラウェ島が生まれる。 その後パパはタヒチ島に戻ってしまうので、残されたワケアはヒナと結ばれてモロカイ島を、カウラワヒネと結ばれてラナイ島が生まれる。

 

しばらくしてパパはハワイに戻ってきて、ルアという男神と結ばれてオアフ島を産む。その後もワケアとパパの間にできたのがカウアイ島、ニイハウ島であった。これでハワイ諸島の主な8島の誕生が完成した。参考までに、北西ハワイ諸島のナショナル・モニュメントは「パパハナウモクアケア海洋ナショナル・モニュメント」と命名されている。ハワイ諸島への移住と各島の命名については、南の島に住むハワイロアが偶然発見して、そこへ家族へ移住して子供たちの名前を付けた、などの神話もある。

 

ハワイ神話では、ハワイ人の祖先はハーロア(Hāloa)であるといわれている。ワケアがパパとの間の娘ホオ・ホクラカニと関係してできた第一子は死産で、それを葬ったらそこからタロイモが出てきたという。第二子はハーロアといい、彼がハワイ人の祖先であると信じられている。

 

このため、タロイモはハワイでは大切に扱われている。また、この神話はチャント「ハーロア」として、今でもハワイでよく聞かれる。なお、ハワイ人の祖先はクムホヌア (Kumu-Honua) であるという神話は、アダムとイブの話によく似ており、19世紀にキリスト教が入ってきてからの創作と言われている。