2015/06/12

淤母陀琉神『古事記傳』



神代一之巻【神世七代の段】 本居宣長訳(一部、編集)
○淤母陀琉神。書紀には「面足(おもだる)尊」と書かれている。この文字の意味の神である。万葉巻二【四十一丁】(220)に「天地、日月與共、満将行、神乃御面跡(あめつち、ひつきトトモニ、たりユカン、かみのミオモト)云々」、また巻九【三十四丁】(1807)に「望月之、満有面輪二(もちづきの、たれるオモワニ)云々」【この二つの「」の字を今の本は読み誤っているが、師が「冠辞考」で、この「面足」の神の名を引いて「たり」、「たれる」と読んだのが良い。】とあり、面(おも)の足(たる)というのは、不足なく備わり整っていることを言う。【面(顔)だけで、手足その他も全て満足されている意味も含む

○この神の名を、師は普通のように「~の神」と読まず「おもだるかみ」と読んだ。それは体言(名詞)から「神」に続くのと、用言(動詞)から続くのを区別したのである。「~の神」と言うのは体言の場合である。用言でも「とこたち」や「つぬぐい」は体言になっている。これらも「とこたつ」、「つぬぐう」とあれば元の用言である。ここでも「おもだり」と言えば体言になるので「オモダリの神」と読むところだが「おもだる」なので用言であり「の」を入れないのが古くからの決まりである。石拆(いわさく)神、根拆(ねさく)神、奥疎(おきざかる)神、邊疎(へざかる)神なども、この例であるという。そのため私もそうとばかり考えていたが、なおよく考えればそうではない。それは「おもだる」という言葉が用言(動詞)だということも、用言を「の」と受けないことにも異論はないのだが、神名や人名は普通の言葉とは違うので、用言であっても「~の神」と読むべきである。それは用言であっても名になったときは、すでに体言化しているからである。ここも「おもだる」という部分が名であり、それを「」、「」というのは、その名に添えて言うのであるから「の神」と読むのが正しい。これは「荒ぶる神」、「天降る神」といった用法と違い、神の固有名称なのだ。天照大御神も「アマテラスの」とは言わないが、実は「アマテラス」という名の神というわけではないので、事情が違う。固有名の場合には用言でも「の」と読む例を挙げれば、孝元天皇の御名は「日子國玖琉命(ヒコくにクルのミコト)」と言う。「玖琉」は書紀に「牽」と書かれており、明らかに用言だが「の」を付けずに読むことは困難である。天皇は必ず「~のミコト」、「~のスメラミコト」と読まなければならない。また神武の段に登場する「贄持之子(ニエモツのコ)」、「石押分之子(いわオシワクのコ)」などは「」の字があるので、言うまでもない。これも師は「持」を「もち」、「分」を「わけ」と読んだが、いずれも「もつ」、「わく」が正しいことは、その段で述べる。】

神祇官坐御巫祭八神の中の「足産(たるムスビ)神」は、この神であろう。【この八神中に、上記七代の十二柱の神のうち、活杙神と淤母陀琉神だけを格別に祭っているのは、その八神が天皇の守護のためにおられることからすると「活」、「足」という神霊の性格によるのだろう。】

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