2015/06/01

鯖街道(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(15)

一般に京都のおかずの味付けは京料理と同じく薄味で、鰹節、昆布、椎茸のうま味を付けた煮物(炊いたん)が多い。いわゆる京野菜など近郊の葉物野菜や根菜類を油揚げ(お揚げさん)と煮たり、煮てから水溶き葛粉・片栗粉を加えて葛ひきにしたりする。使う醤油は薄口のため、色も素材の色に近い。しかし、塩こぶと呼ぶ昆布の佃煮のような塩辛く、色の濃い家庭料理もある。

 

焼き物は家庭のおかずであっても、一般に京料理と認識されているものと基本的に同じであるが、内陸のため新鮮な海産魚は伝統的な家庭料理には殆ど使われなかった。魚類は若狭より鯖街道で運ばれる塩魚や、干物を主に使用していた。

 

鯖街道は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、その中でも特に鯖が多かったことから、近年になって「鯖街道」と呼ばれるようになった。狭義では、現在の小浜市から若狭町三宅を経由して京都市左京区に至る「若狭街道」を指す。広義では、現在の嶺南から京都を結んだ街道全てを鯖街道と呼ぶ。

 

鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れたサバは徒歩で京都に運ばれた。生サバを塩でしめて京都まで運ぶとちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたといわれている。

 

夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったといわれる。しかし、冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされている。運び人の中には、冬の峠越えのさなかに命を落とす者もいた。

 

鯖街道によって、サバだけでなく多くの種類の海産物なども運ばれた。平城宮の跡や、奈良県明日香村の都の跡で発掘された木簡からは、若狭からタイの寿司など10種類ほどの海産物が運ばれたと推定され、鯖街道の起源は1200年以上、あるいは約1300年前と考えられている。また、現在の橿原市にある藤原宮跡から出土した木簡には塩の荷札が多数見つかり、鯖街道を利用して塩も多く運ばれたとみられている。

出典Wikipedia

 

出典https://www.tamuracho.co.jp/sabakaidou/

現代においても、小浜や国道367号沿線などには鯖寿司の製造を生業とした店が多数存在する。板屋一助が1767年に著した『稚狭考』によると、本来は能登沖の鯖が有名で、それがとれなくなり若狭の鯖が有名になったということのようだ。それらを運んだ鯖街道は1本だけでなく5本ほどあったようで、その中でもっとも盛んに利用されたのが小浜から熊川宿を通り滋賀県朽木村を通って、大原から鯖街道の終点といわれる出町に至る若狭街道であった。この道では、大きな荷物を馬借という馬による輸送を行っていたようです。さらには、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から今津に出て、琵琶湖を使って京へ運んだ水路もあったようです。

 

また、京への最短距離をとる峠道として「針畑越え」があり、この道は鞍馬経由で京都出町に至っている。また堀越峠を越えて京都高尾へつながる「周山街道」や、美浜町(現在若狭町)新座から滋賀県マキノ町へ抜ける「栗柄越え」や、遠く兵庫県の篠山までも繋がっていたと言われる。

 

これらの鯖街道のルーツは、奈良、飛鳥時代に若狭の国が「御食国」と呼ばれ、朝廷に税として塩や塩漬けした魚介類を納めていた頃に遡る。かつて、この若狭は「裏日本」ではなく、大陸文化を受け入れる表玄関となっていた。良好なリアス式海岸を持つ若狭湾は絶好の漁場であり、それらの魚は塩漬けにされ朝廷に貢いでいたことは、平城京跡から多数の木簡が出土されていることでも証明されている。

 

若狭の海の幸は奈良の高官の口を楽しませ、やがて京へ都が移ってからも京の都の人々に「若狭もの」と称され「若狭かれい」、「若狭ぐじ」と、今も京料理には欠かせないものとなっている。

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