2015/06/30

神世七代『古事記傳』

神代一之巻【神世七代の段】 本居宣長訳(一部、編集)
○「以下(いか)、以前(いぜん)」は漢の字の読みで、我が国の言葉ではない。ここは「以下」を「しも」、「以前」を「まで」と読む。「并」の字は延佳本に「並」とあるが、誤りである。ここだけでなく、この後にも所々見える。みな、これに準じて考えるべきである。これは諸本に「并」とあり、その方が良い。

神世七代。神世とは、人代【これを「ひとのよ」と読むことは、古今集の序に出ている。】に対して言う言葉である。非常に古代の人は、みな神であったので、こう言う。ではいつまでの人は神で、いつから人は神でなくなったのかと言うと、その明確な区分はなく万葉の歌を見ても、ただ広く古代を神代と言っている。【万葉巻六(1047)に「日本國者、皇祖乃、神之御代自、敷座流、國爾之有者(ヤマトのクニは、スメロギの、カミのミヨより、シキませる、クニにしアレば)」とは、神武天皇の御代を指し、同じ巻(1006)に「自神代、芳野宮爾蟻通、高所知者(カミヨより、ヨシヌのミヤにアリがよい、タカしらすは)」と言うのも、人の代になってからのことだ。同巻十八(4111)には「皇神祖能、可見能大御世(スメロギの、カミのオオミヨ)」と垂仁天皇の御世のことを詠んでいる。また巻一では、当時の御代を誉め讃えて「神乃御代」と言っている。】

しかし、あえて事を分明にするなら、鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ)の命までを神代とし【書紀は、そこまでの二巻を神代上下二巻としている。新撰姓氏録も、それまでに登場した神の子孫を神別、神武天皇より後を皇別とする。】白檮原(かしばら)朝(神武天皇)から後の時代を人代とする。実際、この天皇の時代から、世の中すべて新たになったので、そう言うのが正しいと思われる。しかしながら、ここで伊邪那美の神までを神世と称するのは、この後の五代の神の頃に、そう呼んでいたのが現代にまで残ったのである。それは、人代になってからは鵜葺草葺不合命までを神代と呼ぶように、五代の神の代には、またそれより古い七代の頃を神代と称していたのだ。実に、この七代の頃は天地の始めであって、神のありさまも世の中の様子も大きく違っていたのである。

七代」は「ななよ」と読む。万葉巻十九【四十丁】(4256)に、橘大臣を寿ぐ歌で「古昔爾、君之三代経、仕家利、吾大王波七世申禰(イニシエに、キミのミヨへて、ツカエけり、わがオオキミは、ナナヨもうさネ)」とある。【また父子が相続する代数を「幾都岐(いくツギ)」と言うので「ななつぎ」と読むこともできる。続日本後紀十五の尾張の連、濱主の歌に「那々都岐乃美與爾(ナナツギのミヨに)」とある。しかし、やはり「ななよ」と読むのが良い。】ところで、これは十二柱の神のうち初めの二柱は単独の神として生まれ、続く十柱は女男二柱ずつ並んで出現したので、単に合わせて十二柱と言ったのでは、その世代が分かりにくいので、後の世継ぎの習慣にならって仮に七代と言ったのである。

【ということは、これは父子相続のように前の神の御代が過ぎてから、次の神が生まれたというのではない。前述のように、この七代の神々は相次いで出現し、伊邪那岐、伊邪那美の神まで、なお天地の始めだったのだ。それなのに、書紀の一書に「國常立尊生2天鏡尊1、天鏡尊生2天萬尊1、天萬尊生2沫蕩尊1、沫蕩尊生2伊弉諾尊1(クニのトコタチのミコト、アマのカガミのミコトをウミ、アマのカガミのミコト、アメのヨロズのミコトをウミ、アメのヨロズのミコト、アワナギのミコトをウミ、アワナギのミコト、イザナギのミコトをウム)」とあり、また一書に「此二神青橿城根尊之子也(このフタハシラのカミは、あおカシキネのミコトのミコなり)」などとあるのは、非常に間違った所伝であって、納得できない。だから弘仁私記でも「これは後代の人が代々相続する様子から、仮に『生む』と表現しただけであって、事実として生んだわけではない」と言っている。そうであろう。

書紀のこの部分には「乾坤之道相參而化、所以成2此男女1」とあるのは、例の撰者による漢籍風の潤色であって、いにしえの伝えに大きく反するものであることは、一之巻でも述べた。また後代、この七代を「天神七代」、次の五代を「地神五代」などと言う人もあるのは何を言いたいのか、その詳細も考えず、ただ強いて天と地に当てはめて言っているだけの妄説なのに、世に広く言われたため聞き慣れてしまい、大きな間違いであるのをよく理解する人も少ないのは、どうしたことだろう。この七代を天神と言ったことなど、古い書にはない。ただ新撰姓氏録に角凝魂(つぬごりむすび)命と出ている神は、この七代のうちの角杙(つぬぐい)神と同一のように思われて、その子孫を天神の部に入れているけれども、これは本当に同一神かどうかは不明であり、名前が異なっている。おそらくただ名前が高御魂(たかみむすび)神と似ているので、天神の部に入れたと考えられ、証拠とすることはできない。

すでに天之常立の神のところで「以上五柱を天神と言う」と書いてあるので、その次は天神と言わないことは明白だ。天位をしろしめすのが天神などという説は、近世の漢意の浅はかな解釈である。天にいる神こそ天神である。ところが伊邪那岐、伊邪那美の神のことを書いたところにも、天にいるとは書いておらず、地にいるようである。ということは、いずれにしてもこの七代は、みなこの国土にいる神である。そうではあるが、またこの神々を「国つ神」と呼んだ例も古い書物にない。国つ神とは、後の五代に至って、この国土の神を天神に対する意味で呼んだ言葉である。ところが、これを「地神五代」と呼ぶのも大きな間違いである。

この中でも天照大御神は高天の原を治めていて、今でも眼前に(太陽として)大空にいるのだから、天神であることは明らかだ。さらに天之忍穂耳命(アメのオシホミミのミコト)や日子番能邇々藝命(ひこホのニニギのミコト)も、高天の原で生まれたのだから、天神である。だから穂々手見(ほほでみ)命以降の人も天神の子と言うのである。ただこの穂々手見命や鵜葺草葺不合命はこの国土で生まれ、ずっとこの国にいたから、天神と称することはない。しかし地神とも言わない。国土に生まれたけれども、天神の正統の御子だから、皇孫(すめみま)と言い、また漢文(書紀)では天孫と言う。それならば天神七代、地神五代というのは、どう見ても不当な妄言である。またこの七代、五代を天の七星、地の五行にかたどると言い、易の八卦に当てて説くのなどは、耳にするのも汚らわしい。】

なお、この七代の神は書紀では少し違っており、(本文では)国常立尊の次に国狭槌(くにのサヅチ)尊という一代があって角杙神、活杙神の代がない。また一書(第三段)に、この一代はあって意富斗能地神、大斗乃辨神の代がない。ところで、世の字と代の字には、違った意味があるわけではない。神代、七世と変えて書いても、全く同じである。書紀でも巻の冒頭に神代という表題を書きながら、ここではこの記と同じように神世七代と書いている。上代から、この記のように書いていたのに従ったのであろう。

○上の二柱云々という註は、十二柱で七代とする趣旨を言っている。

○各(おのおの)とは「己々」ということである。【「己」の仮字は「淤能(おの)」だから「各」もそうである。「淤」に「袁(を)」の字を書くのは誤りである。】称徳紀の詔には「於乃毛於乃毛(おのもおのも)」とある。【「毛」は「てにをは」の辞である。】

○十神、二神は「とばしら、ふたばしら」と読む。【その理由は、一之巻の「訓法の事」にある。】

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