神代五之巻【須佐之男命御啼伊佐知の段】本居宣長訳(一部、編集)
言(もうしたまわく)は、伊邪那岐命に請い願ったのである。だから書紀では、先にこのことを書き、後に「幽宮を造って云々」と書いてある。ところがこの記では、先に「淡海云々」と伊邪那岐命のその後のことを語って後に、この言が出てくるので事の順序が違うように見えるが、そうではない。以下の「すぐに天に参上した」というところへ続けるためである。こうした例は、この記にはところどころにある。
○請は「もうして」と読む。【書紀の雄略の巻にも、同様に読むところがある。】
○参上は「まいのぼります」と読む。高津の宮(仁徳天皇)の歌に「麻韋久禮(まいくれ)」【参来である。】、万葉巻十八【二十七丁】(4111)に「麻爲泥許之(まいでこし)」【参出来である。】などの例がある。【これを「い(旧仮名ゐ)」を「う」のように言って、参上を「まうのぼる」、参来を「まうく」、参出を「まうで(もうで)」などと言うのは、後に音便で崩れたのである。今まで崩れずにいるのは参入「まいる」だけである。】万葉巻六【三十六丁】(1022)に「参昇八十氏人乃(まいのぼるヤソうじひとの)云々」とある。
○山川(やまかわ)は山と川である。【山にある川の意味ではない。】「か」は清んで読む。
○國土は、山川との対句なので二字に書いているが、二つのものでなく単に地のことを言う。「くにつち」と読む。【この二字で「くに」と読むべきところもあるが、ここは「くにつち」と読むのが良さそうだ。】後の文には「天詔琴拂レ樹而地動鳴(あめのノリコトきにふれて、つちとどろき)」ともある。
○震は「ゆりき」と読む。【「き」は助詞である。】書紀に「地震(ナイふる)」とあり「ふる」とも読めるが、武烈の巻の歌に「始陀騰余瀰、那爲我輿釐據魔(したどよみ、ナイがよりこば)」【「下動、地震来者」である。】とあるので、やはり「ゆる」の方が古言のようである。【「與」と「由」は互いに通用することが多い。】今の言でも、そういう言い方をする。このところ、書紀には「溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴ク(口+句)、此則神性雄健使之然也(おおきウミゆすり、やまオカとよみき、コはカムサガのたけくてシカありしなり)≪口語訳:大海に大波が立ち、山や丘は鳴り響いた。これは神性が強烈だったからである≫」と書かれている。
○聞驚は「ききおどろかして」と読む。【「き」を延ばして「かし」というのは、例によって古言の一つの活用である。人を驚かすのとは違う。】この言葉は、記中にところどころある。「見驚(みおどろく)」、「聞喜(ききよろこび)」、「見喜(みよろこび)」などの言い方もある。すべて古言である。
○我那勢命(アがナセのミコト)は前にも出た。【ここで書紀に「吾弟」と書いてあるのは、漢文である。】
○善心は字のままに読むこともできるが、やはり師が「うるわしきこころ」と読んだのが良い。【すぐ後に「汝の心の清明(あかき)」とあるので、ここも「あかき」と読んでも良さそうだが、書紀ではその部分を「汝の赤心」、「汝の心の明浄」と書き、一方ここの「善心」を「善意」とか「好意」と書いているので、両者は別の意味のようである。】この「うるわしき」は、書紀の神代の下巻に「友善」とある。【この記には「愛友」とある。】善という字の意味であって【漢籍でも、古くからこういう場合の「善」の字は「うるわし」と読んでいる。】人の交わりが睦まじく、異心がないことを言う。
○我國(わがくに)とは、高天の原を言う。【その理由は前に述べた。】
○奪。万葉巻五【十九丁】(850)に「有婆比弖(うばいて)」という言葉がある。この一句全体は「アがクニをうばわんとオモオスにコソ」と読む。耳の字を「こそ」と読む理由は、一之巻【六十三葉】で述べた。ここで例に引くのは畏れ多いが、書紀の神武の巻で「長髄彦がこれを聞いて『天神の子がやって来たのは、きっと私の国を奪おうとしてのことに違いない』と言った」というのと、よく似ている。
○御髪は「みかみ」と読む。【古い書物では、どれも「みくし」という読みをしている。中古の書物にも「おおんぐし」とあり、今でも「おぐし」と言う。しかし、これは櫛から転化した名称だろう。そのことは前にも論じた。】上代の女の髪は、師の万葉の註に詳しく述べられている。ところがここで「髪を解き」とあるのを、書紀では「髪を結(あげて)」とある。「解」と「結」では大きく違う。
そこで更に考えると、女は普通成長すると髪をあげるのが上代からの風儀だったのだが、飛鳥浄御原宮(天武天皇)の御宇十一年の詔に「これより以降は、男女ともに髪を結(あ)げよ」とあるのを考えれば、上代に髪をあげるというのは頭の後ろで束ね結わえて、髪の端は後ろへ垂らしていたのだが、その詔でいう「結」とは、頭上で結わえ束ねて、いわゆる髻(もとどり)という形にするのだろう。【髻は、一つに結わえるのである。男の二つに分けた「みずら」とは違う。】
ところで同じ十三年には「年齢四十歳以上の女は、髪をあげるもあげないも、本人の意志に任せよ」と言う。同十五年(朱鳥元年)には「女どもの髪は、昔からの習わしのように背に垂らす形にせよ」というのは、また上代からの髪型に戻す詔勅である。だからこの詔勅の後にも、万葉に「髪をあげる」ことを多く歌っているのは、後ろで結んでいたのであろう。背に垂らしていたのなら、詔勅には違反しない。つまりここで「解き」とあるのは、その本で結んであるのを解いたのである。【神功皇后が「髪を解いて」とあるのも、この意味である。それをある説でこの「解」を「わけ」と読んで、「三山の冠の形を真似た」などと言っているのは、こじつけである。】
書紀に「あげて」とあるのは、垂らした髪の末をあげるのである。そう読めば、これほど言葉は違っていても、実は同じことをいっており、違いはない。【よく注意しないと、思い惑うものである。】
○纒は「まかし」と読む。【「き」を延ばして「かし」と言うのは例の古言。】髪を分けて結い、みずらにしたことを言う。ここから「蹈建而(ふみタケビて)」までは、仮に男装したのである。【もっとも、玉を纏くのは、男だけではない。また猛々しい装いでもない。これは、尊く厳かな形を表すため、美玉などをまとったのである。】
○御鬘(みかづら)についても記述した。【伝六の十九葉】
○御手に玉を纏うことは、前記の御頸玉のところでも述べた。書紀の仁徳の巻に、雌鳥皇女の手玉(たたま)が、名高い良玉だったという記事があり、万葉巻三【四十七丁】(424)に「泊瀬越女我手二纒在玉者(ハツセおとめがテニまけるタマは)云々」などとある。
○各は「みな」と読む。
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