美濃国を指す木簡は多く見つかっているが、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの「野」に由来するという説がある。
そして8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や、同3年(703年)の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は、8世紀にやや遅れて登場したようである。
別に、平城宮から出土した木簡には「美野国」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義(美乃国)、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸大同元年牒)にも、「美乃国」とある。
柳田国男は著書『地名考』で、美濃、耳納、三納など、ミノと読む地名を挙げ、これらは一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した地名であるとし、島根県美濃郡、岡山県の美濃県(みぬのあがた)などを例示した。当国本巣郡に美濃郷があり、この本巣郡は根尾川両岸を占める山地丘陵地帯で、美濃国造の本拠とされている。
美濃囲いは、将棋において、主に振り飛車戦法で用いられる囲い。主に居飛車戦法で用いられる矢倉囲いと並んで代表的な囲いである。先手でいえば玉将を2八の位置に、右の銀将を3八の位置に、左の金将を5八の位置に動かして作る囲いである(右金はそのままの位置)。通常の美濃囲いを本美濃(ほんみの)や金美濃(きんみの)と呼ぶこともある。玉の逃げ道を作るために1六に歩兵を突くことが多い。構えが低く横からの攻めに強いため、居飛車に対して有効な囲いである。
しかし上部や端からの攻めに弱い上、玉のある位置に利いている駒がないため、いったん上部を破られると2八に駒を打たれて受けがなくなる弱点がある。居飛車側が舟囲いの場合は堅さで大きく上回ることができるが、穴熊囲い(居飛車穴熊)に比べると堅くない。
名称の由来
美しい美濃国の城にちなんで、この名前が付けられた(または岐阜城にちなんで織田信長が命名した)とされるが、東公平の研究によれば、江戸時代の美濃国出身の棋士が創始したからであるという説が江戸時代には一般的であったという。
東によれば、以下の二説が存在している。
・美濃の音通和尚が始めた囲いであるから、美濃囲いという。
・美濃出身の松本紹尊七段が始めた囲いであるから、美濃囲いという。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
岐阜県は、古くは美濃(みの)国および飛騨(ひだ)国でした。美濃国は、北は越前国、飛騨国、東は信濃国、南は三河国、尾張国、伊勢国、西は近江国に接します。
古くは三野、御野と記され、和銅ごろに「美濃」と定められました。
はじめは14郡でしたが、霊亀元(715)年本巣郡東部を分けて席田郡が、8世紀末から9世紀前半に安八郡から池田郡が、斉衡2(855)年に多藝郡から石津郡、武義郡から郡上郡が分かれ18郡となりました。
『和名抄』は、訓を欠きます。国名は、各務野、青野、賀茂野(または大野)の三野から、「真野」の転(本居宣長)、「簑」の産地(賀茂真淵)、朝廷の禁野があったから、「ミ(美称)・ノ(野)」の意、「ミ(水、湿地)・ノ(ヌの転。沼地、湿地)」の意、「山沿いのわずかに高低のある地」などの説があります。
この「みの」は、
「ミ(ン)ゴ」、MINGO(curled,wrinkled)、「皺が寄っている(地域。国)」(NG音がN音に変化して「ミノ」となった)
の転訛と解します。
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