第二次大戦中には軍事優先の元で耐乏生活が強いられ、食料の供給にも厳しいものがあったが、昭和20 (1945) 年の敗戦によって食料事情の悪化に一層の拍車がかかった。
空襲による生活・生産環境の破壊、軍人・民間人の海外からの引き揚げによって失業者が大量増加するとともに、凶作による食料不足、インフレの急激な進行で、食料事情は深刻を極めた。また食糧緊急措置令などによる配給も行われたが、これでは栄養水準の維持も怪しく、東京・大阪などの大都市では栄養不足による餓死者が多かった。こうした中、アメリカによる経済援助の多くを小麦などの食料供給に充てたが、その克服には難しいものがあった。ちなみに海外からの小麦の輸入は、その後のパン食の普及に大きな役割を果たした。
そうした中で経済安定政策が採られ、朝鮮戦争の特需もあって、昭和26(1951)年になると日本経済は戦前レベルまでに回復し、食料不足も次第に解消へと向かうと同時に、サンフランシスコ条約締結により国際復帰が実現した。そして昭和30年代の驚異的な高度経済成長により、経済規模は実質約5倍に膨らみ確かに生活は豊かになった。戦前に較べ貧富の格差が縮まり、社会的規模で貧困からの脱出に成功したが、産業構造は農業から工業へと移って都市への集中が増大するとともに、新たに公害問題や食品汚染などの問題も生じた。
食料を取り巻く環境も、大きな変貌を遂げた。スーパーマーケットの登場とともに、電気冷蔵庫の普及に低温輸送のコールドチェーン化が進み、新鮮な野菜や魚・肉のほか、ハム・ソーセージやミルク・バター・チーズ、さらには清涼飲料水やビールなどを、何時でも自由に口にすることが可能となった。また都市ガスやプロパンガスの普及によって、いつでも火が自由に使えるようになったため、焼き物が手軽になっただけでなく揚げ物や炒め物など、西洋風・中華風の料理が簡単にできるようになった。ちなみに電気炊飯器を初めとする電化製品の増加を背景に、主婦の労働時間が軽減され女性の社会進出を促した。
さらに、食生活の洋風化は昭和35(1960)年頃から急速に進み、とくに米の消費量が減少して米余り現象が生じた。戦前まで一人あたりの米消費量は160kgとされていたが、昭和61(1986)年には半分以下の71kgにまで落ち込んだ。また肉や乳製品の需要が高まって、子供の人気メニューも玉子焼きからハンバーグへと変化し、同63年には供給量ベースで、肉および乳製品の総量が魚介類を追い抜くという状況に至った。米と魚という日本食のイメージは、大きく変化したことになる。特に、この時期にはバブル景気に湧いて、食生活と料理そのものに著しい多様化の波が訪れた。ファミリーレストランやファーストフードのチェーン店が各地に出現し、牛丼店・天丼店などの専門系列店も含めて食を楽しむ外食空間が一気に拡大した。ただ、こうした飲食チェーン店の拡大は料理の画一化をもたらし、油脂類の多用に及ぶ傾向があることも忘れてはならない。
しかし、経済性・利便性から外食化には歯止めがかからず、さらには外食感覚の延長線上に中食という新しい食のスタイルが登場をみた。この前提には、ホカホカ弁当など持ち帰り弁当屋の展開があったが、これに加えてコンビニエンスストアーの展開が中食普及の大きな要素となった。すなわち惣菜なども含めて調理済みの食品を手軽に供給できるシステムが、深夜営業も含めて全国各地に整備されたためである。元々、大都市の下町には総菜屋が数多くあって、商店など家族一体で働く家庭の食生活を支えていたが、現代の中食はその殆どが工場生産によって成り立っているという点が異なる。ただ最近では従来の飲食店でも、店内の客に限定せずに積極的に弁当の販売も行っており、外食という範疇に収まらない中食は、孤食という食事形態の変化の中で今日では極めて高い需要を得ていることに注目すべきだろう。
またインスタント食品の需要も、現代の食生活には大きな位置を占めるようになった。特に日本で開発された、インスタントラーメン・カップヌードルやカニカマなどは海外でも人気が高く、広い意味では日本食の海外進出の一環を担っている。すでに醤油はソイソースとして海外でも調味に用いられているほか、化学調味料も東南アジアの魚醤・穀醤の味覚圏では広く利用されている。これに加えて最近では日本食そのものの海外進出が著しく、健康志向とも相まって日本料理が幅広く受け容れられるに至った。
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