2017/01/28
古代エジプト神話(後)
2017/01/27
台所設備と調理道具の特徴(農林水産庁Web)
夏に高温多湿の気候をもつ日本では、アジアの他地域同様、発酵食品が早くから発達した。みそ、醤油、酢、酒、みりんは、日本料理の調味料として日本料理の味のベースになった。汁物や煮物には、調味料に加えて、鰹節、煮干し、昆布などで出汁をとり、これに醤油やみそによる味を付けることでうま味を増し、よりおいしい料理が出来る。さらに、これらの調味料、出汁の材料に加え、わさび、からし、しょうが、こしょう、さんしょう、とうがらし、柚、木の芽、おろし大根など香辛料・香辛野菜を加えることにより、季節感を楽しみながら、より一層美味しさを感じる料理が工夫され定着している。
刺身の調味料は、現在醤油とわさび、醤油としょうがなどが一般的であるが、時代とともに調味にも変化がみられる。江戸時代の料理書の刺身の調味料を調査してみると、初期の料理書では酢にわさび、しょうが、からしなど、辛みを組み合わせた調味料が多く使われている。次に多く使用された調味料は煎り酒と呼ばれるもので、酒に梅干し、鰹節を加えて煮つめたものである。
関東醤油が量産されて、一般に広まる江戸時代中期以降には、醤油にわさびをつけるなどの現代に繋がる調味が行われるようになる。また、現代は煮物、あえ物、焼き物に至るまで、砂糖またはみりんなどの甘味を加えた調味が一般化しているが、この習慣は江戸後期の料理書に見られるようになるものの、明治後期に書かれた『東京風俗志』(平出鏗二郎)によれば、明治以降、東京を中心に流行するようになり、みそ汁にまで砂糖を入れると記している。この習慣には地域性があり、関西では甘味による調味は必ずしも東京と同様ではなく、幕末の『守貞謾稿』では関西の人が江戸の甘味を入れた調味の方法に対し、食品の味を損ねると批判している。
これを見ると中世の料理書の性格をもつ『料理物語』では、甘味をつけた料理は見られず、たまりが60%を占めている。また、江戸中期の『料理網目調味抄』では、醤油+酒の調味が56%で、みそと酒の調味を合わせると81%となる。しかし、高級料理屋として有名だった八百善主人の刊行による『江戸流行料通』では、煮物の殆どに甘味が使われており、みりんに塩、みそにみりんの味付けも加えると、84%に甘味を用いている。
一方、明治期に刊行された料理書『実用料理法』では、たまりを除き種々の調味が使われているものの、甘味を加えた料理は40%以上となる。さらに大正期の『家庭実用献立料理法』になると、52の煮物の87%が醤油+みりん(または砂糖)の調味であり、みそ+みりん(または砂糖)の調味を加えると、甘味の煮物は95%、殆どの煮物料理に甘味が加えられている。調査資料をもう少し増やして検証する必要はあるが、現在の煮物に甘味を加える調味法は、このような変化があり、1910年以降一般化し継承されてきたといえよう。
明治時代以降の料理の発展と調理場、調理道具の発展とは切り離せない関係がある。江戸時代までの主な熱源であった薪と炭は近代以降も長く使われたが、これにガスと電気の発展が加わった。1880年代以降普及する国産マッチも、調理の能率を高めた。日本は水が比較的豊かとはいえ、それを台所の近くに運ぶ手間は重労働であったが、江戸の水道以上に広範囲の水道の架設と、蛇口から水を使える近代的水道の供給は調理時間を短縮し、水の確保のための労働と時間を減少することとなり、料理作りへの時間的ゆとりが出てくることにもつながった。これらの近代的設備を人々が受けることが出来るようになるのは、生活スタイルが少しずつ変化する日露戦争前後、1900年以降と考えられる。
『東京ガス100年史』によれば、東京の家庭用燃料としてのガス需用家数は1902年に853戸であったが、5年後の1907年には4188戸と増加している。その後、さらに広がり雑誌などにもガス竈、ガス七輪などの絵入り広告が出された。1923年の関東大震災には、需用家約25万戸の半数近くが消失したが、1930年にはこれらが復旧し、東京の家数の約58%にガスが供給され約64万7千戸となった。大阪でも同じ頃、約60%の世帯に普及した。しかし第二次大戦後の1950年代頃までは、依然として薪、炭は主要な家庭用燃料であり、とくに炊飯には長く薪が使用された。東京を中心とした神奈川、埼玉を含む労働者家庭の炊事用燃料の使用状況(1951~53年)を見ると、終戦後の復旧が十分とはいえない時期とはいえ、薪、木炭の使用が多かったことがうかがえる。これらの世帯の給水設備をみると、大工場世帯では63%が水道のみの使用で、その60%は共用であった。
以上のような燃料に合わせて、調理器具が使われた。炊飯用には薪が長く使用されたことから、厚い木製の蓋のある羽釜と呼ばれる鍔の付いた鍋が一般的なもので、1日に1回まとめて炊く習慣から、1升炊き、3升炊きなど比較的大きな羽釜が使われた。またガス用のかまども、羽釜を使えるよう考案された。加熱用の調理道具としては、ほかに各種の鍋類、せいろが用いられ、あえ物、みそ汁作りにすり鉢、出汁を作る鰹節削り、大根、しょうがなどをおろす下ろし金などが使われてきた。
近代以降は、西洋料理に必要なフライパン、シチューパン、泡立て器などが加わり一般化した。日本の伝統的な切る道具である包丁は、片刃が特徴で菜切り包丁(薄刃包丁)、出刃包丁、刺身用包丁は、どこの家庭にも常備されていたが、現在、刺身を各家で作ることが少なくなり、魚をおろす機会も減少すると、出刃包丁、刺身用包丁は姿を消すことになった。代わって、マルチタイプの洋包丁が家庭で常備する包丁の主流となり、材質も鋼製から錆びないステンレス包丁が多くなっている。
現在は家庭に電気冷凍冷蔵庫が常備され、副食に重きが置かれるようになるにつれて、食材が多様化し、加工品などを含めて貯蔵できるようになると、数日分の食材をストックすることは当然のこととなった。電気冷蔵庫は1922年に販売されたというが、もちろん一般的なものではなかった。電気冷蔵庫は1950年以降販売されたが、普及するのは1970年頃で、普及率は約90%となっている。また冷凍食品の生産に伴い、1965年以降2ドア冷凍冷蔵庫の販売が広がり、さらに電子レンジも登場し、1980年には約34%の普及率であったが1990年には65%となる。
2017/01/25
天岩戸(2)
第七段一書(一)では、この後、稚日女尊(わかひるめ)が清浄な機屋で神聖な衣を織っていると、素戔嗚尊が天斑駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中に投げ入れた。「稚日女尊は驚きて機墮ち所持せる梭によりて体を傷め神退(かむざ)りき」。
天照大神は素戔嗚尊に、「汝は黒心(きたなきこころ)あり。汝と相い見えんと欲(おも)わず」と語り、天石窟に入って磐戸を閉じた。「是に天下(あめのした)恆(つね)に闇(くら)く、また昼・夜の殊(わかち)無し」とある。
そこで、八十萬神たちは天高市(あめのたけち)で相談した。高皇産霊尊の子の思兼神が思案し、「その神(天照大神)の姿を映し出すものを作って、招き寄せましょう」と申し上げた。そして、石凝姥に天香山の金(かね)を採らせ、日矛(ひほこ)を作らせた。また、美しい鹿の皮を剥いで天羽鞴(あめのはぶき)を作らせた、とある。
この一書では、稚日女尊が梭で傷ついて死んだとされる。ワカヒルメは天照の妹神とも子神ともする神社がある。また、作らせた鏡は紀伊國に鎮座する日前神(ひのくまのかみ)である、とあるため鏡は日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)と同一とされる。
第七段一書(二)では、素戔嗚尊が本文同様の暴挙を行うが、「然れども、日神(ひのかみ)、親み恩(めぐ)む意(こころ)にして、怒らず恨まず、皆、平らかな心以ちて容(ゆる)しき」とある。
しかし、嘗(にひなへ)を行う時に、素戔嗚尊は新宮(にひなへのみや)の席の下にこっそりと糞をした。日神は気づかずに席に座ったため、体中が臭くなってしまう。そのため怒り恨みて、天石窟に入ってその磐戸を閉じた、とある。
そこで神々は困り、天糠戸神(あめのぬかど)に鏡を、太玉命に布帛を、豊玉(とよたま)に玉を作らせた。また、山雷神(やまつち)に多くの玉で飾った榊を、野槌神(のづち)に多くの玉で飾った小竹(ささ)を作らせた。それらの品々を持ち寄って集まり、天児屋命が神祝(かむほぎ)を述べたため、日神は磐戸を開けて出てきた、とある。
そうした後、神々は罪を本文同様に素戔嗚尊に負わせ贖罪の品々を科して差し出させ、高天原から追い払った。
第七段一書(三)では、素戔嗚尊は自らが与えられた土地(天杙田(あまのくいた)・天川依田(あまのかわよりた)・天口鋭田(あまのくちとた))は、日神の土地(天安田(あまのやすだ)・天平田(あまのひらた)・天邑田(あまのむらあわせた))に比べ痩せた土地だったため、妬(ねた)んで姉の田に害を与えた、とある。日神は最初は咎めず、常に穏やかに許していた、とあるが結局、天石窟に籠るのである。
その為、神々は天兒屋命を遣わして祷らせることにした。以降が神々のとった行動である。
・
天兒屋命:天香山の榊を掘り起こす。(興大産霊(こごとむすひ)の子)
・
石凝戸邊(いしこりとべ):作った八咫鏡を上の枝にかける。(天糠戸(あめのぬかど)の子)
・
天明玉(あめのあかるたま):作った八坂瓊之曲玉を中の枝にかける。(伊弉諾尊の子)
・
天日鷲(あめのひわし):作った木綿(ゆふ)を下の枝にかける。
・
太玉命:榊を持ち、広く厚く称える言葉によって祷る。
すると、日神は「頃者(このごろ)、人、多(さわ)に請(こ)うと雖(いえ)ども、未(いま)だ若此(かく)言(こと)の麗美(うるわ)しきは有らず。」
意味:「これまで人がいろいろなことを申してきたが、未だこのように美しい言葉を聞いたことはなかった」と言って、磐戸を少し開けて様子を窺った。その時、磐戸の側に隠れていた天手力雄神が引き開けると、日神の光が国中に満ち溢(あふ)れた、とある。
そこで、神々は大いに喜び、素戔嗚尊に贖罪の品々を科し、手の爪を吉の物として切り棄て、足の爪を凶の物として切り棄てた。そして天兒屋命をして其の解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしめき、とある。
後、素戔嗚尊は「神々は私を追い払い、私はまさに永久に去ることになったが、どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と言い天に戻る。すると天鈿女命がこれを日神に報告する。
日神は、「我が弟が上って来るのは、また好意(よきこころ)からではないはず。きっと我が国を奪おうとしているのだ。我は女だが逃げるほどでは無い」と言って武装した、とある。そして二神で誓約が行われる運びになる。
この一書は、話の筋立てが他とは異なり、思兼神が登場しないなど大きな特徴がある。
世界の神話
インドネシア・タイ・トルコ・モンゴル・中国南部・サハリンなど、アジアには広く射日神話・招日神話が存在する。特に中国南部の少数民族に天岩戸と似た神話が多い。
ミャオ族は、九個の太陽と八個の月が一斉に出てきた。弓矢で八個の太陽と七個の月を刺し殺す。残った一つずつの日月は隠れてしまった。天地は真っ暗。知恵者を集めて相談しオンドリを鳴かせる。オンドリは翼を叩いて三度鳴くと日月が顔を出した。
プーラン族は、太陽の九姉妹と月の十兄弟は、揃って天地の間にやって来て一斉に照りつける。八個の太陽と九個の月を射落し、さらに残った月も射殺そうとした。逃げ出した太陽と月は洞窟に隠れ夫婦になった。
世界が真っ暗になったので、オンドリを遣わし太陽と月を洞窟から出るよう説得させる。一人は昼、もう一人は夜に別々に出てくること、ただし月の初めと終わりには洞窟の中で会って良いとした。月と太陽が洞窟から出ようとしたとき、大きな岩が邪魔をして出られない。そこで力自慢のイノシシが岩を動かして入口を開け、太陽と月を外に出してやった。
ペー族には、天地が離れ始めた頃、天に十個の太陽と一個の月が昇った。子供の太陽たちは昼夜を分かたず天を駆ける。そのため地上は焼けるような熱さで、蛙と鶏の兄弟は太陽を追って槍で九個の太陽を刺し殺してしまう。
両親である母・太陽と父・月は、恐れて天眼洞の奥深くに隠れてしまい世は真っ暗闇。そこで蛙は天を、鶏は地を探した。鶏が声を放って呼ぶと、太陽と月は天眼洞から顔を出し、こうして大地に日月が戻った。人々は太陽を呼び出した鶏に感謝して、赤い帽子を与えた。
その他の少数民族にも、さまざまなパターンで存在する。中には太陽と月を射殺した者が、逃れて隠れた太陽と月に色々捧げてなんとか外に出て来てもらう神話や、美声を使って出て来てもらう神話もある。
中国北方の馬の文化では太陽を男性とみなし、南方の船の文化では太陽が女性として信仰されていた。シベリアでもナナイ族やケト族など、太陽を女とみる少数民族が多い。
天岩戸説話は天上界の出来事であるが、「ここが天岩戸である」とする場所や関連する場所が何箇所か存在する。
出典 Wikipedia