2017/01/19

武蔵国

「武蔵国(むさしのくに)」は「草のおいしげった『もさもさ』したところ」からか日本の古代国家が北九州から近畿地方にかけて、ちょうど列島の西半分あたりで確立し、徐々に東へと影響力を拡大していったことは誰もが知っていることです。

 

 昔の日本は「五畿七道」、つまり大和、山城、摂津、河内、和泉の五幾内国と、東海、東山、北陸、山陰、山陰、南海、西海の七道あたりのことであって、現在の関東以北や沖縄などは入っていませんでした。人も住み、それぞれに集落を形成し、国家らしきものも存在していましたが、大和の政権に服していなかったのです。

 

現在の関東地方も、その一つでした。昔の関東を意味する「吾妻(あずま)=東」、あるいは「武蔵(むさし)」は、大和朝廷が影響力を拡大し軍事的に平定していく過程でつけられた地名です。

 

 「吾妻」は日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の過程で通った碓氷峠で、妻であった「弟橘姫(おとたちばなひめ)」をしのんで、「あづま(我妻=吾妻)」と叫んだことに由来するとされています。

 

 「武蔵」は、まったく人手がはいらず、もちろん拓かれてもおらず、草がおい茂って「もさもさ(茂草々々)」していたところだったから、「もさもさ」が地名のようなものとして呼ばれ、その「もさもさ」がいつしか「むさむさ」に転じ、その「むさ」に「武蔵」という漢字が当てられたという説があります。

 

 これらの説に対し、この地名は出雲系の人たちが西日本の日本海地方から移り住んでいったときに、広大な関東平野に燦燦と太陽が降り注ぐ様子に感激して「日射す国(ひさすくに)」といい、その「ひさす」が「むさし」に転化し、いまのような漢字が当てられるようになった、という説を唱える地名研究者もいます。「常陸国」も、もとは「日立ち」であり、「北上(きたかみ)」も、もとは「ひたかみ」で「日た上」だというのです。古代朝鮮の地名説もあります。

 

「む」は「中心」、「さし」は「城」を意味するもので、渡来してきた人々が城を築いたところであるという説を唱える人もいます。「さがみ(相模)」も同じことを意味するというのです。

 

『武蔵』の名称由来は、諸説あり特定されてないのが現状です。

 

飛鳥京・藤原宮木簡に『无耶志国』とあり、7世紀頃までは『无射志(ムザシ)』や『牟射志(ムンザシ)』と記録されています。

 

他にも『牟佐志』・『無邪志』・『牟邪志』・『无謝志』・『胸刺』という表記がありますが、全て当て字とされています。『胸刺(ムネザシ)』は“ムサシ・ムザシ・ムンザシ”とは別国ともあります。

 

正直、『无耶志国』という表記があったという以前のことについては、何も解ってないという感じです。なので、語源も確定していません。

 

ですが、江戸時代の国学者から民俗学者は『武蔵国』の語源について色々と唱えています。

 

1.       『陸路廼記』で近藤芳樹は、「総(フサ)国の一部が分割され総上(フサガミ)と総下(フサシモ)となり、後に相模と武蔵となった」と記しています。

2.       『古事記伝で本居宣長は、「佐斯(サシ)国があり、後に佐斯上(サシガミ)と下佐斯(シモザシ)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」と記しています。

3.       『倭訓栞』で賀茂真淵は、「身狭(ムサ)国があり、後に身狭上(ムサガミ)と身狭下(ムサシモ)に分かれて相模と武蔵となった」と記しています。

4.       『武蔵の昔』で柳田國男は、「雑木林を蒸す“ムス”と 焼畑農地を作る“サシ”から由来しているのでは」 と記しています。

 

武蔵国の領域は、7世紀頃に知々夫国(知々夫・秩父)と无耶志国・胸刺国が統合して確立しました。713年に元明天皇は、令制国(律令国)を定め国名を漢字2文字に統一し、『風土記』を編纂することを命じた。

その際に、ムサシに『武蔵』が当てられましたが、なぜこの字になったかは不明です。

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