琵琶湖東岸の交通の要衝であり、かなり早くから開けていた町ですが、歴史に大きく登場するようになったのは、やはり戦国時代以降でしょう。
東海道新幹線や国道8号線より少し東側の佐和山に石田三成が城を築いていましたが、関ヶ原の合戦で西軍・豊臣方が敗北、その中心人物であった石田三成は逃れたものの捕らえられ、京都六条河原で斬首されました。
徳川家康から、主のいなくなった佐和山城を与えられた井伊直政が入ってきました。そして、今からおよそ400年前、その息子の直継が彦根山に城を築いて、一帯を治めるようになりました。井伊直政が徳川家康の天下取りにあたって果たした役割は、斬り込み隊長のようなものでした。ですから講談や浪曲では、酒井忠次・榊原康政・本多忠勝とならんで「徳川四天王」と称され、実際、徳川家康をはじめ歴代の将軍は彼らと、その末裔を幕府の要職につけてきました。
井伊家の名がいちばん記憶されているのは、家康の天下取りの時代と幕末です。とりわけ幕末、それまで鎖国体制をとってきた日本を開国へと舵取り、その結果水戸浪士の襲撃を受け暗殺された大老・井伊直弼の名は誰もが記憶していることでしょう。
彦根の歴史はここらでおいて、本題の「ひこね」の地名ルーツに話を移します。
「ひこ・ね」と分解して考えるのが地名研究の基本のようです。逆から考えることにしますが、「ね」は高い場所を示します。「箱根山」「白根山」などが、よくわかるでしょう。
「ね」は「みね(峰)」の「ね」であり、伊豆諸島に「式根島」があるように海や湖の中から突き出ているところも示します。「彦根」も琵琶湖のすぐそばですから、なるほどと思われます。
「山幸彦」「海幸彦」など古代の位の高い人の名前に使われるように、「ひこ」は「日子」で、「秀でている」という「ほめ言葉」になります。地名の場合には「突き出ている」場所を示します。城がそびえている彦根山は、確かにあそこだけが突き出ています。
「彦根」の地名は、むかし天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いきつひこねのみこと)の二神がおられ、このうち活津彦根命が活津彦根明神として彦根山に祭られたことに由来しているとされている。
箱根の語源の類証として、滋賀県琵琶湖東岸の彦根の語源も説明しておきましょう。賢明な読者は、箱根と彦根の地名の音の類似性から既にお分かりのことでしょう。
彦根は〔ひ-こ-ね=hi-ko-ne〕で、箱根と全く同じ「中間に存在する不便な所」でした。琵琶湖は、湖東の愛知川や野洲川が運ぶ土砂で少しずつ埋まり、湖岸線は江戸時代からでも、多い所ではおよそ2km程西へ移動しています。彦根の辺りも、古代には湖岸が切り立った山裾に迫っていました。
鈴鹿・伊吹・養老山系がぶつかるすぐ西の彦根は、現在よりもっと厳しい地形で、湖岸を徒歩で通行することも、東側の山地を越えることも極めて困難だったのです。都へ向う旅人は、関ケ原を越えて琵琶湖が見える米原付近に出ると、湖岸から舟に乗り大津まで南下しました。今の国道8号の元の姿である中仙道にも、東海道と同じように水の上の道があったのです。
箱根と彦根の二つの隘路は、その後鉄道と高速道路で僅かの時間で越すことができるようになり、その言葉が持つ「中間にある不便な所」という感はほとんどなくなっています。
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