ネブカドネザル2世
即位した後、ネブカドネザルはシリア・パレスティナ諸国に遠征を繰り返し、次々と掌握していく。このような状況下で、ユダ王国が反乱を起こした。バビロニアはユダを攻め、前597年エルサレム陥落。バビロニアは、ユダの王エホヤキンをはじめ多くの住民をバビロニアに連行した(バビロン捕囚)。このときバビロニアによってユダの王位についたゼデキヤも、後に反乱を起こし、前586年、ネブカドネザルはエルサレムと神殿を破壊し,再び住民を強制連行した。
新バビロニアの王は王碑文において、もっぱら自ら行った建築事業について述べており、軍事遠征などの政治的な内容にはほとんど言及していないが、いくつかの間接的な言及等から、かつての新アッシリア同様、全メソポタミア・シリアを含む広大な領土を支配していたことが分かる。
また、バビロンのイシュタル門やそこから続く大通り、神殿等、数々の建築を行った。有名な空中庭園は、その存在ははっきり証明されておらず、ニネヴェの庭園が誤ってバビロンとされた、という説もある。いずれにせよ、この王の時代が新バビロニアの最盛期といえる。
アメル・マルドゥク、ネリグリッサル、ラバシ・マルドゥク
ネブカドネザル2世の死後、バビロニアは再び政治的に不安定な状態に陥った。ネブカドネザルの息子のアメル・マルドゥクが即位するが、治世2年にして暗殺される。アメル・マルドゥクを暗殺して即位したのは、ネブカドネザルの娘婿といわれる高官ネリグリッサル(ネルガル・シャラ・ウツル)だった。しかし彼は、即位した時点ですでに高齢だったと思われ、その在位は長く続かなかった。
その後、ネリグリッサルの息子ラバシ・マルドゥクが即位するが、ナボニドゥス(ナブー・ナーイド)と、その息子ベルシャザル(ベール・シャラ・ウツル)によるクーデターで倒された。
ナボニドゥス
ナボニドゥスは、ラバシ・マルドゥクを倒して紀元前555年に即位したが、彼自身は王家の人間ではなかった。その素性ははっきりしないが、彼の母アダド・グッピは、名前から推し量るにアラム系であり、ハランという都市出身で、月神シンを信仰していたことが、彼女自身の自伝ともいえる碑文から分かっている。
即位後まもなく、遠征に出発したままアラビア半島のテイマというオアシス都市に10年間も滞在。その理由に関しては諸説あるが、はっきりしていない。ナボニドゥスがバビロンを留守にしている間、皇太子のベルシャザルがバビロニアを治めたが、新年の祭儀は王不在で行われることはなかった。
前541年頃バビロンに帰還した後、神殿の改革などを行うが、とくに月神シンをマルドゥクの代わりに最高神としたことが、バビロニア住民(とくに神官)の反感を買った。アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、この住民たちの反感を利用し、前539年バビロンに無血入城することに成功した。
統治体勢
新バビロニアの領内統治システムは、実はあまりよく分かっていない。行政区に分けられ、長官が任命された。地中海沿岸地域やカルデア人・アラム人の住む地域では、地元の有力者が王によって任命された。
バビロニアの都市行政は、各都市の市長もしくは神殿の長官を頂点とし、都市の有力者からなる集会によって決定されていた。社会構造は大まかに自由民、奴隷、小作人からなった。
自由民
都市の市民階級(マール・バーニ)。免税など様々な特権を享受していた。神殿の高級官僚や王室の官僚、職人や商人などによって構成される。自らの名前とともに、父親の名前および先祖の名前(ファミリーネーム)で呼称される。伝統的な一族は、神殿の「聖職禄」を保有していた。
奴隷
奴隷は、王室奴隷・神殿奴隷・個人所有の奴隷に分類できる。
私有奴隷
個人所有の奴隷は、主人の家族とともに暮らし、家事等に従事する。売買や譲渡、主人の借金の担保の対象となり、自らの身柄に関して決定権がない。財産としての価値は高く、アメリカの黒人奴隷のように、鞭で打たれたり迫害されることはない。結婚して家族を作ることができる。解放されて主人と養子縁組をし、主人の老後の世話をする場合などもあった。例は少ないが、自分の財産を持つこともできた。
神殿奴隷
神殿に従属し、祭儀などの宗教関係以外の雑用に従事する。
王室奴隷
王宮に従属して雑務に従事したと思われるが、王室奴隷に関してはあまり分かっていない。
小作人
王室や神殿、大土地を所有する個人に雇われる。都市周辺の農村地帯に住んで土地を耕作し、収穫物(大麦、ナツメヤシ等)を小作料として納めた。これは神殿・王室にとっての主要な財源であった。実際には細かい制度上の差異によって、更に細分化されていた。
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