2018/05/18

ソクラテス(8) 魂の優れ

出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 こうして一度立ち止まって、自分の人生を世間のしがらみから離れて見つめ直して見ると「人間とは何なのか、人生の目的とは何なのか、人生の意味とは何なのか、本当のところ誰も良く分かっていない」という事実が浮かび上がってきてしまいます。しかし、それでは「不安」ですので、人々は「分かっているつもり」になって多くの人々の走っている方に自分も走っているのが実情といえます。あるいは「気づきたくない」という「本能」が働いてくるのかもしれません。何故なら、気がついてしまうと「不安」になるからです。

こうして多くの人々は、その「不安」から逃れるために「言い訳」をしたり「分かった振り」をしたり「虚勢を張ったり」してくるのです。しかし人生に対して誠実であろうとすると、一度はその「不安」の淵を覗いて、そこから自分の人生を見つめ直すことが要求されます。「他人によって左右されない自分の人生」「自分が真に納得できる人生」を形成するために、です。

 そうはいっても、こんなことを追求するのは自分一人では難しいです。誰か導き手が欲しいです。その導き手は、その「不安」を真実に自覚し、問題とし、一生かけてその問題と格闘して、そして指針を示してくれた人となります。私達が歴史を振り返ってそうした人を求めるのは、こうした事情があるからです。その指針を与えてくれそうな人の歴史が、哲学史となるわけです。哲学者としては、ソクラテスこそが史上初めて、その現場に立った人となります。

人間とは何なのか、人生とは何なのか、生きることの意味は、目的は・・・誰も知らない」という絶望的な現場に、です。そしてソクラテスは、文字通り生涯と死をかけてそれに立ち向かい、そして「自分なりに真に納得できる生き方」の指針を示してくれたのです。

私達が人生に問題を感じた時、いつも立ち返るのがソクラテスとなるのは、ソクラテスこそが最も優れて指針を示してくれるからなのです。ソクラテスが人類にとって最高度に重要なのは、こうした意味合いにおいてなのでした。

人間の優れと魂
 私たちの現代社会でも「地位・財産」などなく「無名」の人であっても「立派な人」と評価できる人がいることは、多くの人が認めると思います。それは特に誰ということはなく「誠実で人に優しく、まじめに人生を送っている」人であれば、みんなそう評価しています。敢えて言ってしまえば、ソクラテスが思う「優れた人生」というのは、そうしたレベルの人生を意味しており、そうした人をソクラテスは「」において優れた人と呼んで、これこそが「真実に人間らしい優れた人」と考えたのでした。

 ここでの「魂」というのは、ちょうど車を運転している「運転手」にたとえれば分かり易いかもしれません。外見は「車が走っている」わけですけれど、それは実は「外から見えない運転手」が動かしているわけです。私たちの場合「肉体が車」みたいなもので「魂が運転手」というわけです。「運転手」が優れた人であるなら車も「上品」に動き、「運転手」が乱暴であったら車も乱暴に動きます。人間も同様で「魂」が優れているならその肉体の示す行動も「上品」であり、魂が粗野であったら肉体の示す行動も「粗野」になります。

 この「魂の優れ」をソクラテスは内容的に普通の言葉で「正しく、公平で、勇気あり、誠実で、心優しく、節制し・・・」などと語ります。ソクラテスは、とにかく「日常の場面で、一般の人々、特に若い青年たちと、日常の言葉で話しをしながら」問題を追及していましたので、こんな日常の言い方となってきます。ともあれ、こうしたものが「人間としての優れ」としたのでした。

 ところが、これを日本語に訳した時、内容的に「」と訳されることが多くなりました。ソクラテスの問題とは「徳にあった」などと一般に紹介されるようになったのは、こうした事情からです。しかし、これは言葉の上で中国の「儒教」あるいは「徳目」と同じようにイメージされ、あまりいい紹介の仕方ではありません。

ソクラテスの問題とは「徳にあった」という紹介の仕方よりも「人間として優れているとは、どういうことなのか」を問題にしていたと言うべきでしょう。現在、多くの日本訳がそうした方向の訳語をとっているのは、そうした意味合いからです。

 ソクラテスは、こうした「人間の優れ」を問題として追及し、追求しながら生きていくのを「人間のあるべき生き方」としたのです。つまり、本当に「こうであったら人間として完成された優れ」などというものは、神様でなければ知ることなどできません。人間は生物として欲望を持ち「衣・食・住の満足」についても「飽くことなく贅沢を求め」ます。そのため、人を騙し、恥じることもなく、優しさを失い、また感情も強いため「怒り、憎しみ、ねたみ」ます。

ここにおいて「人間らしく」と思った人間が出来ることと言えば「何が真実の善であり、正であり、うるわしいことなのか良く分からない」ということを正直に認めて、認めたところからそれを追求し、とりあえず納得したところで行動し、さらに追求し、ということだけです。このあり方を、ソクラテスは「フィロソフィア・愛知の道」と呼んだのでした。

 人は、「分かっているけどつい悪いことをしてしまう」といいます。でも本当に、そう思っているのでしょうか。「大したことはない」と思っているのではないでしょうか。もし、それが「本当に地獄行き」だと分かっていれば、人は悪事など働かないでしょう。

そんなことはないと思って、それが今「得」になる「利益」になる、「快楽」であるということで、そう行為してしまうのでしょう。ですから「本当に」その行為の意味が分かれば、人は正しく行為できる筈です。勿論、そんな「知」は得られないかもしれませんが、しかし少しでも多くその知をもてれば、その分「より正しく」行為できるでしょう。

ソクラテスは、そんな風に考えて「正しい認識」へと追及の道を突き進んでいったのでした。ですから、この「」というのは学校で習ったり、本に書いてある「知識」などとは全然違います。むしろ「人間そのものについての洞察、人生についての洞察」といえるでしょう。

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