出典 http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
「哲学」の一般的な用法と本来の用法
この章全体は、「人間を考え、人生を考え、生きるということを考えたい」人々に向けて書かれているものです。これは「哲学の原点」の問題なのですが、しかし現代は、こうした問題を「殆ど忘れて」あるいは「どうでもいいこと、つまらないこと、暗いオタクがやること」としてしまっているようです。そして「その日その日を楽しく快適に生きれば良い」としているようなのですが、他方で少しでも何かがあると「不安」に駆られて右往左往してしまいます。
そうして、あくせくするうちに「人生のあり方というものそのもの」に意識が向いた人々、特に若い諸君に向けて「人生を考える上で何か刺激となる考え方」を紹介したいという意図でこの章は書かれています。
念をおしておきますが、ここでの紹介は「刺激」であって「このように生きなさい」という助言・示唆ではありません。時代も状況も違いますから「先人と同じように生きる」などということはできるわけもありません。しかし人生を考えて生きた先人の生き方・思想は、誰にとっても「自分の人生を」考える上で大きな刺激になるのは間違いなく、それだからこそ歴史を通して今日まで伝えられているのです。
結局ここでは「古代ギリシャ・ローマの哲学者」を扱うことになります。哲学が「人生を考え、人生を形成する」ことに尽きていたのは、その時代だけであったからです。中世の哲学は「聖書に示されている世界を神学的に体系づける」ことでしかありませんでした。近代から現代になっても、哲学の主流は「世界を解釈すること」に殆ど尽きており、わずかの人々が「人間の生そのもの」を問題にしたにすぎません。それも「人間とは何か」という理論的なものが主流でした。そういうわけで、ここでは「まっとうに人生を見据え、それを自分の人生そのもの」とした哲学者として「哲学の原点の時代」に特化することとしたものです。
論の運びですが、彼らの哲学とは「人生に現れる」ものでしたから、彼らの「生き方、生涯」を先ず何をおいても紹介しなければなりません。その上で「まとめ」という位置づけで彼らの「思想」をまとめて紹介するという仕方となります。
ソクラテスの課題
「哲学」「ないし「人間を考える」といえば、誰をおいても「ソクラテス」ということになります。
ここが、全ての原点となります。
ソクラテスは紀元前399~470年頃古代ギリシャに生きた人であり「哲学の祖」として知られています。「哲学」というのは、ギリシャ語原語で「フィロソフィア」といいますが、文字通りの意味は「フィロ=愛、ソフィア=知」で「愛知」となります。内容的には「人間として良く生きることについての知の愛し求め」となります。
ソクラテスが問題にした「人間として良く生きることについての知」というのは、あらゆる個別の知が向かう「究極の知」と言えます。何故なら、人間や文化、社会に関わるさまざまの個別の知はもちろんですが、自然現象に関わるものであっても「人間が問題にして問うた」ものなのであり、その限りで「人間に関わるもの」であり、「人間が良く生きる上での知」に向かっている筈だからです。
他方、「人間が良く生きる」という言い方がされる以上、それは「実際の具体的な人間の生」に現れてくるものでなければなりません。つまり、ここでは哲学とは「人生の形成論」となります。
初めに指摘しておいたように、中世以降、哲学の課題は人間や世界を「解釈する」ための論になってしまったために「人生の形成」という側面が失われてしまいましたが、哲学の原義は「人生の形成論」であったことは忘れてはならないことで、従って近代以降そうした側面を持つ哲学も一部に復活してきます。
何故ソクラテスが「良く生きること、また人間とは、人生とは」について本格的な思考をはじめたのでしょうか。私達の場面で考えてみましょう。
私達人間は、誰にしても「人生が良くありたい、幸福でありたい」と思います。しかし、そう思いはするものの、どうなったら「人生が良く幸せ」なのかよくわかりません。多くの人々は「衣・食・住の満足」や「快楽の充足」をもとめ「財産・地位・権力・名誉」を得ることに「人生の目的」を見ているようです。それが「幸福を保証する」と信じてです。
しかし、実際のところ「財産が山ほどあっても」「大企業の社長など地位を得て名声が高くなっても」「大統領や首相など権力を握っても」、どうもさっぱり「幸福」とは見えないことが多いようです。反面で、貧しく地位も無いけれど「楽しく幸せそうな人」もたくさんいます。それで「どうも良くわからない」となるのです。
また、別の面から見てみましょう。近代科学の使命は「人間のために自然を支配し、利用する」ものとなり、その目的は「人間がより快適に、便利に、豊かに」というところに見ています。しかし、その結果が、たとえば「多くの生物の絶滅・地球の温暖化・砂漠化、あるいは人間の精神的貧しさ」などを生みだしました。
あるいは分かりやすい例としては、原子力発電は「電力の供給」には利便性を持つものの「生物・人類の絶滅」というすさまじいリスクを抱えています。生物や人類の破滅という「考えられないほどのリスクを抱えての利便性の追求」とは何なのでしょうか。
しかし、人間はそうした反省を「リスクが身に降りかからない限り」殆どしません。「身に降りかかってきた時はおしまい」なのですが、今のところ「身に降りかかっていない人の方が多数」ですので相変わらずとなります。こうしたことに「気がつく」と大変です。初めから考え直さなければなりません。
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