2018/05/08

アテナイの民主主義


紀元前5世紀前後のアテナイとアッティカの周辺地域において発展した。世界で初めての民主主義として知られており、ポリス(都市国家)において発展した。他のギリシアの都市では、アテナイの方式に倣った民主主義が成立していたが、アテナイの民主主義ほど記録が残されていない。

アテナイの民主主義は、直接民主制であり、市民が法律や法案に直接投票した。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、投票者は大人の男性市民である必要があった。そのため外国人居住者、奴隷、女性に投票権はなく、その数は人口約25-30万人のうち3-5万人、あるいは「成人の総人口の30%未満であった」と言われている。

最も長くアテナイを統治した民主主義指導者は、ペリクレスであった。彼の死後、ペロポネソス戦争が終わるころに起きた、寡頭制革命によって、アテナイの民主主義は、2度中断された。そしてEucleidesの下で復活した後に、制度に変更が加わり、最も詳細に伝わっているのはペリクレスの時代の制度ではなく、この紀元前4世紀に変更された制度である。

民主主義は、紀元前322年にマケドニア人によって抑圧された。アテナイの制度は後に復活したが、元来の民主主義にどの程度近いのかに関しては、議論の余地がある。ソロン(紀元前594年)、 クレイステネス(紀元前508-507年)、エフィアルテス(紀元前462年)は、アテナイ民主主義の発展に貢献した。クレイステネスは、財産ではなく居住していた地域によって、市民を10の部族に編成することで、貴族の権力を弱体化させた。

語源
民主主義」を意味する英語、"democracy"(デモクラシー、古希:δημοκρατία)は「国家」「国民・住民」を表す「デーモス」(古希:δμος)と「権力」を表す「クラトス」(古希:κράτος)の合成語で、「人々の力」の意味となる。英語で君主政治を意味する"monarchy"、おなじく寡頭政治を意味する"oligarchy2語による合成語であるが、その2語目は「アルケー」(古希:ρχή)からきており、「始まり」「最初に来るもの」、そこから転じて「最初の場所または力」「主権・統治権」をも意味する。

類似する語の「デマーキー」(英:demarchy、古希:δημαρχία)は、アテナイの民主主義者によって用いられるようになったと思われる場合があるが、この語はそれ以前から「統治者」「市長職」の意味で使用されており、都市国家において身分の高い公職につく人物を示していた。現代では、英語の"demarchy"は「くじ」を意味する語として使用されている。

現在「民主主義」と呼ばれている制度が初めて成立したときに"δημοκρατία"という語が存在したかどうかは分かっていない。この語はヘロドトスの『歴史』 (6.43) で使用されているが、この文献が著されたのは紀元前440年から430年以降のことである。紀元前460年頃にはデーモクラテースという名前の人物が知られており、彼の名前はおそらく民主主義への忠誠心を表したものである。また、同名の人物がアイオリアのテムノスにもいたとされる。
出典 Wikipedia

アテネの歴史・財産政治から民主政治へ
 この段階では平民は政治から排除されていますから、これくらいでは不満はおさまらない。前594年、ソロンの改革によって貴族政治はついに終わり、財産政治が始まります。

ソロンの改革は、2つのポイントを抑えてください。ひとつ、市民を財産によって等級分けして、財産を持つ者には平民にも参政権を与えた。要するに重装歩兵として武具を自弁できる財産のある連中には、政治参加を認めたということ。これが「財産政治」の意味です。

これだけでは、財産がなくて参政権を与えられなかった平民が不満を持ちます。そこで、貧乏で困っている平民の借金を帳消しにした。極端な貧乏平民には、借金のカタに奴隷身分に落ちる者もいた。これを救った。

債務の帳消しと、債務奴隷の禁止」とまとめています。これが二つ目です。貧乏平民にとってみれば、借金を棒引きにしてもらったのはありがたいが、同 じ平民なのに財産の多少で参政権に差別をつけられるのは面白くない、やがて 彼らが不満を持ちます。いつの時代でも同じですが、金持ち平民と貧乏平民とどちらが数として多いかといえば、圧倒的に貧乏人の方が多い。この大多数の貧乏平民の不満を利用して、非合法で政治権力を握る者が出現しました。ペイシストラトスという人物で、彼は貴族層から権力を奪い独裁政治を行いました。これを僭主政治といいます。(前561~前528頃)

僭主というのは、独裁者のことと理解しておいてよいと思います(君主の堕落形態の意)。ただ、独裁政治だから、滅茶苦茶な政治を行ったかというと決してそうではなく、ペイ シストラトスの場合は貧しい平民を経済的に助ける施策を積極的に行っています。貴族から見たら、滅茶苦茶な政治かも知れなかったですがね。

 ペイシストラトスの死後、跡を継いだ僭主が前510年に追放されて、アテネには民主政治が確立してきます。これは三段階に分けて理解するとよい。

第一段階。クレイステネスの改革(前508年)。クレイステネスの仕事は二 つ。一つは、貴族の権力基盤となっていた古い部族制度を廃止して、地域割りで新しい部族を創設したこと。これを10部族制といいます。今でいえば国会議員 の選挙区の区割りを、大物議員や与党に不利なように変えてしまうようなモノかな。これによって、貴族は名ばかりの存在となりました。

二つめが、陶片追放制度の実施。これは面白い制度で、独裁者、僭主の出現を 未然に防ごうというものです。投票するんですが、まだ紙がないから瓦のかけ らなどに有力者の名前を刻んで投票する。その時に自分の「嫌いな人」の名前を書くんだね。将来、独裁者になりそうだなと思う人物をね。6000票以上投票された人は、10年間アテネの町を追放になるという制度です。

クレイステネスの改革によって、貴族と僭主はなくなった。だから政治の主体 は市民ということになる。この市民とは、名前だけの貴族と金持ち平民です。この段階では、まだ貧乏平民は参政権がありません。この人達も政治に参加できるようになったのが、前5世紀前半のペルシア戦争を通じてでした。
出典 http://www.geocities.jp/timeway/index.html

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