ソクラテスの対話(問答法)
プラトンの初期対話篇で描かれる、比較的実像に忠実とされるソクラテスから導かれる解釈では、彼が実践した、ある一つの考え方が内在的に伴うことになる矛盾を明らかにするために、その主張に疑問を投げかけながら議論・問答することで、より妥当な真理に近づこうとする方法を意味する。問答法と表現される。
例えば、プラトンの著作『エウテュプロン』の中で、ソクラテスはエウテュプロンに、「敬虔」とは何かと尋ねた。エウテュプロンは、「敬虔」とは神々に愛されることだと答えた。ソクラテスは、ギリシャ神話の神々は人間と同じように争いごとが好きであり、これは神々も愛したり憎んだりすることを表している、と指摘した。エウテュプロンは、この意見に賛同した。そしてソクラテスは、ある一つのものがあれば、それを愛する神もいれば、それを憎む神もいる、と述べた。エウテュプロンは、再びこの考えに賛成した。ソクラテスは、もしエウテュプロンの「敬虔」の定義が正しければ、神々に愛される「敬虔」と、神々に憎まれる「不敬虔」の両方が存在しなければならないこととなるが、これは人間の側の心の持ち様が不問に付されているとして道理に合わないと結論付け、エウテュプロンもこのことを認めた。
反対論証または論駁(古代ギリシア語: ἔλεγχος,
エレンコス「反証ないしは論駁の議論。特に論駁するという目的のために反対尋問をし、検証をし、精査をすること」)は、ソクラテス式問答法の中枢を占める技法である。elenchus(反対論証)というラテン語表記は、英語では哲学の専門用語として使われる。
プラトンの初期対話篇において、反対論証はソクラテスが究明をするのに使用する技法である。究明というのは、例えば「正義」や「徳」のような倫理的概念の特質あるいは定義の究明である。あるおおまかな説明によれば、反対論証は次のステップからなる。
ソクラテスの対話相手がある命題、例えば「勇気とは魂の忍耐のことである」を主張する。この命題のことをソクラテスは偽であると考え、論駁の標的にする。
ソクラテスは追加の前提、例えば「勇気は素晴らしいものである」ならびに「無知に基づく忍耐は素晴らしいものではない」への同意を対話相手から取りつける。
次に、これらの追加の前提は最初の命題と反対のことを含意するということ、この場合、それらの前提から「勇気とは魂の忍耐のことではない」が導かれるということをソクラテスが主張し、対話相手もそれに同意する。
次に、対話相手の命題が偽であること、ならびにその命題の否定が真であることを自分は示した、とソクラテスは主張する。反対論証的な考察は検討中の概念にかんする新たな、より精錬された考察をもたらすことができる。この場合、反対論証的考察は「勇気とは魂の賢明な忍耐のことである」という主張について考察することを促す。ほとんどのソクラテス式探究は一連の反対論証から成り、多くの場合、「アポリア」として知られる難問にたどり着く。
上記の第4ステップは、プラトンの初期対話篇がもつアポリア的特質を失わせている、とマイケル・フレード(Michael Frede)は主張している。もし何らかの主張が真であると示されるのであれば、対話相手たちがアポリアの状態になるということはありえない。なお、ここでアポリアの状態というのは、彼らにはもはや対話中の話題について、何を言うべきなのかが何も分からないという状態のことである。
反対論証が正確にどういう性質のものかをめぐっては、大いに議論がなされている。とりわけ、反対論証は知識をもたらしてくれる肯定的方法なのか、それとも知識をもたらしてはくれるものの、もっぱら誤った主張を論駁するのにだけ使われる否定的方法なのかをめぐって、議論がなされている。
W.
K. C. ガスリー(W. K. C. Guthrie)が、著書『ギリシャの哲学者たち』で述べているところによると、ソクラテス式問答法のことを我々が問いへの答え、ないしは知識を求める手段だとみなすのは誤りである。ソクラテス式問答法は、実際は我々の無知を明らかにすることを狙いとするのだ、とガスリーは主張している。ソクラテスはソフィストたちとは異なり、知るということは可能だと考えていたが、知ることへの第一ステップは自分の無知を認めることだとも考えていた。ガスリーはこう書いている。
「〔ソクラテス〕がいつも言っていたのは、彼自身はものを知らないということ、そして彼が他の人たちよりも知恵がある唯一の点は、彼は自らの無知を自覚しているのに対して、他の人たちはそうじゃないということである。ソクラテス式問答法の精髄は、対話相手に、その対話相手は自分が何かを知っていると思っているが、実際はそうじゃないのだということを納得させることである。」
応用
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ソクラテスは通例、自らの検討法を具体的な定義がないように思われる概念へ応用した。例えば当時の主要な道徳的概念、つまり「敬虔」、「知恵」、「節制」、「勇気」、そして「正義」といった徳目へ応用をした。このような検討は対話相手たちが暗黙的に抱く道徳的信念を疑い、彼らの信念に含まれる不備な点や矛盾を明らかにし、そしてたいていアポリアにたどり着いた。信念のそうした不備な点があることから、ソクラテスは自らの無知を認めたのだが、他の人たちはものを知っていると主張したままだった。無知であるにもかかわらず、ものを知っていると主張したままの人たちよりも、ソクラテスをより知恵のある者にしているのは、彼が自らの無知を自覚しているということだ、と彼は考えた。一見したところこの考えは逆説的なようだが、この考えのおかげで実際にソクラテスは自らの誤りの数々を悟ることができたのであり、それらの誤りのことを他の人たちは正しいと決めてかかっていた。この主張は、ソクラテスより知恵のある人物はいないという、デルフォイの神託の宣告としての逸話のおかげで知られることとなった。
ソクラテスは知恵についてのこの主張を、自分が道徳を奨励するときの基礎として用いた。それで、彼は次のように主張した。
最高善(the
chief goodness)は、道徳的真理および道徳的理解とのかかわりで魂に配慮をすることにある。
「富は個人と国家のどちらにも善をもたらさないが、善はそれらのどちらにも富や他のあらゆる恩恵をもたらす。」
「検討[対話]のない人生は生きるに値しない。」
ソクラテス式問答法が使われるのは、このことを念頭に置いてのことである。
現代にこの方法が使用される動機と、ソクラテスが使用した動機は必ずしも同じではない。ソクラテスが実際に整合的な諸理論を練り上げるために、この方法を用いたことはたまにしかなかったのであり、彼はその代わりにミュトスを用いてそれらの理論を説明した。パルメニデスがソクラテス式問答法を用いて、ソクラテスが持ち出したものとしてのプラトン哲学のイデア論に含まれる不備を指摘しているところを、対話篇『パルメニデス』は描いている。通例プラトンないしはソクラテスが解説する理論が、対話を通して乗り越えられるという内容の対話篇は、『パルメニデス』だけではない。この方法は答えにたどり着くためにではなく、我々が抱いている理論を乗り越えるために、すなわち我々が当然のことと思っている公理や公準を「超える」ために使われた。それで、プラトンはミュトスとソクラテス式問答法を両立しないものだとはしなかった。それらには異なる目的があり、それらはしばしば、善や知恵へと至る「左側」と「右側」の道と表現された。
出典 Wikipedia
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