新バビロニア(紀元前625年 - 紀元前539年)は、ナボポラッサルによりメソポタミア南部のバビロニアを中心に建国され、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって征服されるまで、地中海沿岸地域に至る広大な領土を支配した帝国。首都はバビロン。以前はカルデア王国とも呼ばれたが、現在の研究によればナボポラッサルはカルデア人ではなく、この呼称は正しいとはいえない。
新バビロニア帝国成立まで
紀元前一千年紀初頭のバビロニアは、強力な中央権力が存在せず、多くの短命の王朝が興亡する、不安定な状況にあった。バビロニアの政治的・神学的中心都市はバビロンであり、「バビロンの王」がバビロニア王とみなされたが、実際には、諸都市は独立した状態にあった。さらに、元々遊牧民であったアラム人やカルデア人の諸部族がバビロニアに定住し、とくにカルデア人は政治的に重要な役割を果たすことになる。
アッシリアによる征服
バビロニアの北部には、強大な新アッシリア帝国があり、あれこれ口実をつけてバビロニアに軍事介入を行っていた。カルデア人のメロダク・バルアダン2世がエラムの支持を得て即位すると、アッシリアのサルゴン2世は大規模なバビロニア遠征を行い、メロダク・バルアダン2世は逃亡。その後エラムの助けで再びバビロニアに戻り、反乱を起こすが、アッシリア王センナケリブによって鎮圧される。
センナケリブは、長男アッシュル・ナーディン・シュミをバビロニアの王位につけるが、アッシュル・ナーディン・シュミは、侵入してきたエラム軍に連行されてしまった。これに激怒したセンナケリブは、報復のためエラムに侵攻、多くの都市を略奪し破壊した。さらにアッシリア軍はバビロンを包囲し、バビロンは15ヶ月後に陥落した。
センナケリブの次のアッシリア王エサルハドンは、バビロンの再建を行った。彼は、下の息子アッシュルバニパルをアッシリア王、上の息子シャマシュ・シュマ・ウキンをバビロンの王の後継者に任命した。しかし実際のところ、バビロニア王はアッシリア王に従属する立場であり、バビロニアでの最終決定権を持っていたのはアッシュルバニパルであった。シャマシュ・シュマ・ウキンは、前652年、アッシリアからの独立を宣言して反乱を起こした。バビロニアの諸都市アラム人、カルデア人の諸部族(すべてではない)が反アッシリア軍に加わった。とくにカルデア人のナブー・ベール・シュマーティは、シャマシュ・シュマ・ウキンと並ぶ、もうひとりの反乱の首謀者としてアッシリアに認識されていた。
前650年のアッシリア軍のバビロン包囲により、餓死や疫病で多数の死者が出た。そしてその2年後、シャマシュ・シュマ・ウキンが王宮の火事で死んだことにより、反乱は終わりを告げた。アッシュルバニパルはエラム制圧に乗り出し、略奪し破壊した。エラムにかくまわれていたナブー・ベール・シュマーティも自殺した。
反乱の後、カンダラヌという人物がバビロニア王になるが、この人物が誰かはよく分かっていない。アッシュルバニパルが死ぬと、アッシリアでは王位を巡る争いが起こり、バビロニアも混乱に巻き込まれた。
ナボポラッサル
このような状況の中、アッシリアへの反乱の主導者として登場したのがナボポラッサルである。彼は、自らを「誰でもない者の息子」と碑文に書いており、その素性は謎に包まれている。カルデア人であるとか、アッシリアの将軍であったという説もあるが、現在の研究では、バビロニア南部にあるウルク市の有力な一族出身であったと考えられている。ウルクは親アッシリアであり、元々アッシリア派であったという過去を隠すため、自らの出自を隠したとみられる。
バビロンの王として前626年に即位した後も、すべてのバビロニアの都市を支配下においたわけではなく、アッシリアとの抗争は続いたが、アッシリアに対して優位に立つようになった。
紀元前612年、メディア王国と同盟を結んでアッシリアの王都ニネヴェを攻撃して陥落させ(ニネヴェの戦い)、その後もバビロニアによるアッシリア征服は続いた。こうしてアッシリアは滅亡し、その後、かつての栄光を取り戻すことはなかった。
新アッシリア滅亡後、バビロニアはシリア・パレスティナの制圧に向かう。シリア・パレスティナ諸国の後ろ盾はエジプトだった。紀元前605年、ナボポラッサルは長男ネブカドネザル(ナブー・クドゥリ・ウツル)を差し向け、バビロニア軍はカルケミシュの戦いでエジプトに勝利をおさめる。しかし、同年ナボポラッサルは急死。息子のネブカドネザル2世が即位した。
出典 Wikipedia
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