2018/05/24

ソクラテスの原理(9)


 その具体的な追求のありかたですが、人生の行動のあり方において、人はたとえば損・得とか、快・苦とか、あるいは常識とか「ある一つの原理・原則」を立てて行動するものだけれど、自分(ソクラテス)の場合にも「これが正しいかな」と思われる「行為の原理・原則」を立てて行動しようとします。その「原理・原則」について、そこにどんな小さい些細なことでも「矛盾・疑問や反対」があるなら、それをとことん追求して、その矛盾や疑問や反対が解決・解消するように「吟味」を繰り返してみようとします。もちろん、これに「終わり」などないわけですけれど「現時点では、これが一番矛盾も反対もない」という形で「回答」を出すことは可能です。

 ソクラテスの場合、その「人生の行動原理」を具体的な場面で様々に言っていますけれど、有名なのが「人はただ生きるのではなく、良く生きることが大切なのだ」というものがあります。これは「人生とは長生きしさえすれば良い」というものではなく「これこそが良き人生だと確信の持てるあり方で人生を送り、そこにおいて死の危険があってもそれを引き受けて、その人生のあり方を全うすべきだ」というものです。

 そして具体的に、自分の身代わりとなって死んだ親友の仇を討つために命をかけた伝説の英雄アキレウスや、愛のために自らの命を差し出した神話上の女性の名前などを引用して「己の信念を貫いて、そのために死を選ぶことすらあり得るような、そうした人生のあり方に真実の人生が見られる」ということを言ってきます。これは、具体的にソクラテスが無実の罪で死刑にされていった時の信念の言葉でした。

 もちろん、だからといって簡単に死を引き受けてよい、といっているわけではありません。「死を選ばざるを得ない」という場面のことであり、その時とは「自分の人生」が台無しになってしまうと思われた時だけのことです。そして、ソクラテスは「自分の人生」のあり方の原理として「善く生きると正しく生きると美しく生きる」とは同じことであり、従って「正しく生きよう」とし、それにかかわって具体的に「不当に相手を害することは不正」としたのです。

 こうした人生の原理・原則について、ソクラテスは様々のところで様々に語ってきますけれど、一番切実な場面は死刑判決を受けた後の「脱獄の勧め」という局面でした。

「死」がかかっていたからです。ソクラテスは無実の罪で訴えられ「不正に」死刑を受けています。ですから弟子たちは「脱獄すべき」だと思いました。そして、それは可能な状況にあったらしいことが、様々な文献から推し量れます。

それに対してソクラテスは、確かに「不正な死刑判決」ではあるけれど、その「不正」を働いたのは「国の法律」だったわけではなく「事態を正しく理解し、正しく法を適応しなかった裁判役」の人たちだとします。

一方「脱獄」というのは、その人たちに対する戦いの行為ではなく「国」に対する反逆罪になってしまい、自分は国を愛しており今回の裁判に関しても法律的におかしかった点があったり、国そのものが不当を働いたわけではないのだから「国家反逆罪」となる脱獄はできない、という結論だったのです。こうして、ソクラテスは「死」を引き受けていったのでした。他方で「裁判役であった人々」に対しては、痛烈な批判の言葉を残しています。

 ソクラテスが民衆裁判で死刑にされる裏には、ソクラテスが有力者達に憎まれていたという背景がありました。そして「若者を堕落させ、神々を認めない」ということで告発され、裁判にかけられてしまったのです。何故憎まれたのかというと、ソクラテスは「真実の人間のあり方」を問題にして、その追求の上で社会の有力者たちに様々な質問を浴びせかけて吟味してしまい、彼らの「欺瞞」を明らかにしてしまったからです。

それだけならまだしも、若者たちがそれを真似して大人たちの生き方を批判するようになったようでした。こうして「若者を害している」とされて告発されてしまったわけですが、しかし実際にはソクラテスにはそんな意図もなく罪などないのですから、それはどうも多くの人々にも理解されていたようで、助かろうと命乞いすれば助かるような状況にありました。

 しかし、そのためには告発者たちが望んでいた「真実の探求」をやめなくてはなりません。つまり有力者達は、ソクラテスに「真実、人間としてのあり方」など追求せず、黙って静かにしていて欲しかったのです。しかし、そんなことをすれば「これまでのソクラテスは何だったのか」ということになるでしょう。

「あるべき人間の生き方を求めること」、「真実を求めること、真の正しさ、真のよさ、真の美しさを求めること」などは「止めてもいいもの」になってしまいます。ソクラテスは、「その探求は、命に代えられるものではない」と思ったのです。つまり「彼自身の人生そのものを守った」といえるでしょう。「ただ生きることが人生」ではなく、「こう生きるのがよい、と自らの意志で決断した生を生きることこそが生」だからです。ソクラテスはそう言って、命乞いを拒否して死んでいったのです。

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