2006/01/09

内幸町

 東京のほぼ中心部に位置する内幸町の名は、生まれも育ちも愛知県のワタクシの耳をして何度も繰り返し訊かされて来たものでしたが「うちさいわいちょう」という耳で訊く音と「内幸町」の字面がどうにも一致せず「内幸町」は「うちさいわいちょう」とは全然別の「ないこうちょう」という町だと思い込んでいたものでした。

ではこの風変わりな地名は、どのようにして生まれたのでしょう。

《今の第一ホテル辺りは江戸城の外堀で、その東南端に架かる橋を幸橋といった。その幸橋の内側にある町なので、内幸町と名付けられた。昔は、幸橋内とも呼ばれた》

《この界隈には、江戸時代の初期から大名屋敷が置かれていました。安政3年(1856)の絵図にも見られるように、陸奥白河藩阿部家、薩摩鹿児島藩島津家、肥前小城(ひぜんおぎ)藩鍋島家、大和郡山藩柳沢家、日向飫肥(ひゅうがおび)藩伊東家、石見津和野(いわみつわの)藩亀井家の上屋敷がありました。

明治5年(1872)、阿部家、島津家、鍋島家の上屋敷を合併し、内山下町一丁目、柳沢家、伊東家、亀井家の上屋敷を合併して内幸町一丁目となりました。内山下町、内幸町という町名は、山下御門、幸橋御門の内側に位置していた事に由来しています。

明治時代の内山下町一丁目には、内務大臣官舎や鹿鳴館、帝国ホテル、内幸町一丁目には東京府庁や社交クラブの東京倶楽部などがありました。鹿鳴館は明治16年(1883)、政府によって現在の大和生命保険株式会社(内幸町1-1-7)の場所に建設されました。

外国貴賓や政府高官などが集まり、舞踏会や演奏会で賑わいましたが、明治27年(1894)、華族会館に払い下げられました。また東京府庁は同じく明治27年(1894)、内幸町一丁目から有楽町二丁目、(現・丸の内三丁目)へ移転しました。

昭和13年(1938)、区画整理により内山下町一丁目と内幸町一丁目の東側が合併して新たに内幸町一丁目となり、内幸町一丁目の西側は内幸町二丁目となりました。かつては上流階級の社交場であったこの町は戦後、多くの企業が名前を連ねるオフィスビルなどに姿を変えました》

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