2006/11/30

京都の紅葉 ゚(ノд`;)゚

 紅葉といえば、何といっても京都である。ここ数年、仕事のタイミングや天気の関係などで、悉くに行くチャンスを逃して来ているだけに、今年は是非行かなければという意気込みで仕事を調整して来たものの、何の因果か密かに狙っていた23-24日周辺だけが雨になってしまった (`Д´)y-~~ちっ

京都旅行の時は、デジカメで撮影する枚数が桁違いに多くなるため、ノートPC持参でモジュラー完備のホテルに宿泊し、当日撮影したものを右から左へとPCに保存して行くのが習慣になっているだけに、雨だけはなんとしても避けたい気持ちが強い。紅葉そのものにしても、雨にしっとりと濡れているのもそれはそれで風情があるが、やはり太陽の光を受けてキラキラと輝いているものこそは、より美しいのだ。

今年は11月の始めまでは異常に暖かかった事もあり、例年より1週間くらいは見頃が遅れるのではないかと予想していたが、意外にも例年と大して変わらぬ進行ぶりとなり、23日の祝日から週末にかけてピークを迎えたのも誤算だった。

となるとやはり、あの雨が恨めしい。一週間ずらすしか手はなく

(今週半ばから週末にかけてまで、何とか持ち堪えてくれよ・・・)

との密かに期待もあえなく裏切られ、週明けの雨で一気にピーク散りが来てしまった様子なのである。遅いところはまだ紅葉が残ってはいるのだろうが、限定された場所以外は盛りを過ぎたキタナイ葉っぱを観なければならないハメになるから、これは面白くない。どうも色付きは遅い進行ながら、早く色褪せてしまうという「ハズレ年」だった気がしてならない。

仕事に見頃に天気・・・紅葉の場合は、この三条件が揃わなければならないから難しいのだが、それゆえに価値があると言う事か。タイミングを逃さないように、調整して来たつもりが不調に終わってしまっただけに、今年は京都に遅れてこれからピークを迎える東京や鎌倉といった、近場でお茶を濁すハメになってしまった (;´д` )トホホ

2006/11/27

シベリウス ヴァイオリン協奏曲(第3楽章)

 


協奏曲の通例どおり急--急の3楽章からなるが、特に第1楽章に強い独創性が認められる。独奏楽器の技巧性よりも、交響的な重厚な響きと緊密な構成が特筆されるが、元々シベリウスがヴァイオリニスト志望であったこともあり、この曲はヴァイオリンの技巧、音色を十分に発揮できるものになっており、古来著名なヴァイオリン奏者が数々の録音を残している。

作曲の年代は、交響曲第2番と第3番の中間にあたり、作曲手法そのものが大きな変化を遂げている時期にあたる。他の幾つかの作品もそうであるが、初稿の演奏後に大幅な改訂を行なっている。

 

この曲の作曲に関わる記録は、早くは19029月の妻への手紙に見られる。当初は、ヘルシンキ管弦楽団(後のヘルシンキ・フィル)のコンサートマスターを務めたブルメスターに献呈する意図で作曲が進められたが、経済的な理由からブルメスターの都合の前に初演することになった。改訂稿の演奏も再三ブルメスターからの申し出があったものの、ベルリンでの初演にまたもや都合が合わず、別のヴァイオリニスト(ノヴァーチェク)になった。ブルメスターは、2度とシベリウスの作品を演奏することはなかったという。

 

改訂稿の完成後、シベリウスは初稿の演奏を禁止したが、1991年に遺族の許可の下、レオニダス・カヴァコスの独奏、オスモ・ヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団により録音が行われた。意外とあっけなく終わってしまう終楽章は、ヴァイオリンとオーケストラが一体になった形で曲がまとめられている。ロンド風に、最初のテーマがティンパニの連打に乗って繰り返される。

2006/11/26

シベリウス ヴァイオリン協奏曲(第2楽章)


 

2楽章は伝統的ともいえる緩徐楽章で、じっくりとヴァイオリンの音色を響かせる。しかしヨーロッパ風ののんびりとくつろぐ楽章ではなく、北欧的な情念を秘めた緊迫した楽章である。

 

2交響曲を完成させ、作曲家としての評価を確固たるものとした時期に作曲された。1903年にこの作品に取り組み始め、年内に一応の完成をみる。翌年には初演も行われたが、評価はあまり芳しくなかった。

 

1905年、シベリウスはベルリンでブラームスのヴァイオリン協奏曲を「聞いてしまった」。シベリウスの基本は交響曲であり、民族的な素材に基づいた交響詩だから、このコンチェルトを書く時も独奏楽器の名人芸をひけらかすだけのショーピースとしてではなく、交響的な響きをともなった構成のガッチリとした作品を書いたつもりだった。ところが、ベルリンで初めて聞いたブラームスのコンチェルトは、そのような思いを遥かに超越した驚くほどに交響的的なコンチェルトだったため大きな衝撃を受ける。ヘルシンキに舞い戻ったシベリウスは猛然と改訂作業に取りかかり、1903年に完成させた初稿版は封印してしまった。

 

とにかく、彼にとって冗長と思える部分はバッサリとカットされ、オーケストレーションもより分厚い響きが出るよう、かなりの部分が変更された。結果として、できあがった改訂版の方は、初稿と比べるとかなり短く凝縮されたものに変身した反面、初稿には感じられた素朴な暖かみや自由なイメージの飛翔という部分は後退する。ただし、作曲家本人が全力を挙げて改訂作業に取り組み初稿の方を封印したのだから、我々素人が「どちらがいいか?」などと気楽なことは言えない。

 

世界中から第8交響曲を期待され、そして何度かそれらは「完成」しながらも、満足できないが故に全て焼却してしまったのがシベリウスである。現在は「遺族の了承」という大義名分のもとに初稿版を聴くことができるとはいえ、やはりシベリウスのコンチェルトは改訂版で聴くのが筋というものであろう。

2006/11/25

シベリウス ヴァイオリン協奏曲(第1楽章)

 


シベリウスは「音楽界の三大ブオトコ」としても有名であり(後の二人は、ドヴォルザークとシューベルト)、そのコンプレックスのせいかどうかはわからないが、極度のあがり症だったといわれる。

 

14歳ぐらいの時に、初めてヴァイオリンを手にしてから演奏に夢中になった若きシベリウスは、ヴァイオリニストになることを目指していた。「森と湖の国」フィンランドらしく、舟を漕いで誰もいない湖の中にある島で練習していたそうな。姉がピアノ、弟はチェロを弾いて、兄弟で室内楽も楽しんでいた。

 

その後、音楽大学(今のシベリウスアカデミー)ではトップの腕前を持つ程にもなったのだが、極度のあがり症のため人前では演奏できなかった。ある時は、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏しようとステージに立ったが、何も演奏できずそのままステージから降りてきた事もあった、というくらいの重症である。ウィーンフィルのオーディションを受けたが、勿論惨敗。こうして人前での演奏に限界を感じたシベリウスは、作曲家に転向をはかったというから、これは我々にとってまことにありがたい結果となった。唯一の協奏曲となった本作品も、ヴァイオリンを独奏楽器とする作品である。

 

シベリウスの作風は交響的でありながら室内楽的な緊密な書法を基盤としており、独奏者がオーケストラと対等に渡り合い、名人的な技巧を披露することを目的とする通例の協奏曲とは必ずしも相容れない。本作は、シベリウスの創作の比較的初期、交響曲第2番と第3番との間に作曲されており、上記のような室内楽的書法が確立する前の作品ではあるが、従来の協奏曲の殻を破ろうとする意志が強く表れており、作風を成立させるに当たっての過渡的とも言える作品となっている。

 

作品の約半分の長さを占める第1楽章が、この曲の中心的役割をなす。冒頭でヴァイオリンで奏でられるテーマは、息の長いロマン的な旋律で初期のシベリウスの特徴として見られるものであるが、曲が進んでいくと管弦楽の書法がより後期の、短いモチーフを連ねるタイプに変わっていくように感じられる部分がある。ソナタ形式のような構成であるが、第3主題まであり、再現部ではいずれの主題もかなり異なった形であらわれる。提示部と再現部の間に、カデンツァがあるのが興味深い。

 

シベリウスは、第1楽章の冒頭部分に関して

「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」

と述べている。通例は楽章の最後に置かれるカデンツァが、ソナタ形式の展開部にあたる楽章の中央に位置するのがこの作品の最大の特徴であり、このカデンツァはそれに値するだけの精緻な主題操作で構成されている。ソナタ形式の原理に当てはめるならば、カデンツァの後が再現部となるが、通常のソナタ形式の再現部とは異なり、各主題は大きく変化した形で再現される。ここでも入念に展開がなされており、再現しながら展開するという独創的な形になっている。交響的な重厚な響きや緊密な構成など、いかにもシベリウスらしい独創性に富んだ楽章で、そのスケール感は古今のヴァイオリン協奏曲の中でも屈指の名楽章である。

2006/11/22

高尾山の紅葉

高尾山といえば、東京の紅葉の名所だ。

途中まではケーブルカー、リフトがあるが、初めてということで山頂まで登山を試みた。

 

高尾山は、東京都八王子市にある標高599メートル(m)の山。明治の森高尾国定公園及び東京都立高尾陣場自然公園に位置。東京都心から近く、年間を通じて多くの観光客や登山者が訪れる。古くから修験道の霊山とされた。

 

概要

関東山地(秩父山地)の東縁に位置する山のひとつ。多摩川水系と相模川水系の分水嶺となっている笹尾根の東端にあって、明治の森高尾国定公園に指定されており、キャンプやバーベキュー、植物の採取、鳥類の捕獲などが禁止されている。 2020年に東京都内で初めて「霊気満山 高尾山〜人々の祈りが紡ぐ桑都(そうと)物語〜」として、文化庁が認定する「日本遺産」に認定された。

 

山頂には展望台や高尾ビジターセンターがあり、全長1,697キロメートル(km)に及ぶ東海自然歩道の起点でもある。また、高尾山には古くから天狗が存在しているとの伝説もある[要出典]。山腹には、役行者による大火渡りや滝の修行場で知られる文化財を有する高尾山薬王院がある。


 

山頂から東側は、八王子市や相模原市などを中心とした関東平野の街並や、筑波山、房総半島、江の島まで眺めることができる。また西側は、丹沢山地や富士山を見渡せる。冬至の前後数日間には、富士山の真上に太陽が沈むダイヤモンド富士を見ることができる。関東の富士見百景、「八王子八十八景」、東京都の奥多摩山域の代表的な山の一つで、多摩百山に選ばれている。

 




高尾山の街

東京都心部からの交通の便が良いことに加え、ミシュラン観光ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」での3つ星評価などの影響もあり、高尾山の人気が近年高まるにつれ、東側の山麓にあり高尾山の正面玄関である京王電鉄高尾線・高尾山口駅の周辺で、観光施設の集積が進んでいる。

 

中腹には、高尾山ケーブルカーを運行する高尾登山電鉄の運営によるさる園・野草園、標高500 mの高所にある「高尾山ビアマウント」(ビアガーデンは夏季限定)、高尾山BBQマウント(手ぶらBBQサービスは春秋限定)などの観光施設がある。

 

また明治以降、高尾山薬王院の参拝客に振る舞ったのが起源のとろろ蕎麦が高尾山の名物となっている。行楽客が減少する冬季のイベントとして、京王電鉄により「高尾山の冬そばキャンペーン」が毎年開催されている。

 

1971年より毎年春・秋の行楽シーズンのイベントとして、京王電鉄により「高尾山・陣馬山スタンプハイク」が開催されている。オリエンテーリングのパーマネントコースも整備されており、トレイルランブームも相まって競技に興じる人がよく見られる。

 

2015年、観光案内と高尾山の自然についての啓発などを目的とした博物館「TAKAO 599 MUSEUM」を開設(施設名は山頂の標高599 mより命名。管理者は京王エージェンシー)。また同201510月、京王電鉄は高尾山口駅に隣接した日帰り温泉施設「京王高尾山温泉 極楽湯」を開業した。

 

高尾山の地下

山頂から見て東側の地下には、高尾山ケーブルカーの下をくぐる形で、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の「高尾山トンネル」(下り線(南から北方向)1348 m、上り線(北から南方向)1329 m)が南北に通っており、南側には高尾山インターチェンジがある。

 

圏央道の道路トンネル建設に際しては、自然保護団体や一部の市民から強い反対運動が起こり、建設差し止めを求める「高尾山天狗裁判」が行われた。開通後の現在でも、景観保護や地下水脈の保全などへの懸念を指摘する声がある一方で、圏央道開通により道路交通の便が改善されたとして、八王子市民や周辺地域の住民から歓迎する声もあり[要出典]、賛否両論と言える。

 

高尾山の歴史

高尾山は東京近郊の行楽地として有名であるが、元来は修験道の霊場であり、真言宗智山派大本山高尾山薬王院有喜寺の寺域となっている。高尾山という名から、真言密教の聖地の一つ弘法大師霊場遺迹本山(ゆいせき)・京都の高雄山神護寺に見立てられたこともあり[ 1]、天然の森林が守られてきた。

 

中世には、八王子城(慈護寺城)主北条氏康・北条氏照親子がこの山を保護し、氏照による「本山の竹木の伐採を禁じる」という制札が薬王院に残されている。江戸時代には、幕府直轄領として八王子代官・大久保長安が山林保護政策をとり、その書状が同じく薬王院に残されている。その後も帝室御料林を経て国有林となり、常に森林が保護されてきた。

 

明治以降、牧野富太郎をはじめ多くの研究者により、高尾山を最初の発見地として新しい植物が発表されてきた。暖温帯系の照葉樹林帯(カシなどの常緑広葉樹)と冷温帯系の落葉広葉樹林(ブナ・イヌブナ・ナラ・ホオノキなど)・中間温帯林(モミ・ツガなどの針葉樹林)の境界に位置するため植生が豊かであり、都市部に近いわりには自然が良好に保たれている。

2006/11/18

アダン バレエ『ジゼル』(5)

 



第一幕

賑やかな農村の場面では、村人たちの踊りが華やかに繰り広げられる中で、有名なジゼルのバリエーションが踊られる。コンクールやガラ・コンサートでおなじみの踊り。また、アルブレヒトの裏切りに気づいたあと、ジゼルが息絶えるまでのシーンは「狂乱の場」と呼ばれ、バレリーナによって表現の仕方が少しずつ異なる。どのように、ジゼルの心理を演じるのかが見どころ。

 

第二幕

ウィリたちが繰り広げる群舞。真っ白なロマンティック・チュチュを身に着けたコール・ド・バレエの踊りは圧巻。また女王ミルタの踊りも高難度で、威厳ある精霊の女王をどう踊るかが見どころ。

第二幕では、ガラコンサートなどでよく踊られる、ジゼルとアルブレヒトのパ・ド・ドゥが披露される。精霊となったジゼルの踊りを体重を感じさせずに踊り、かつアルブレヒトとの微妙な心のやりとりを演じる必要があり、バレリーナにとっては表現が難しい場面だ。それだけに、アルブレヒトとジゼル役のダンサーたちがどのような二人の世界を作り上げるのかが、観客にとっては楽しみなところ。

 

初めてバレエ音楽を依頼されたチャイコフスキーが、図書館に篭って徹底的にスコアを研究したのが、この『ジゼル』であった。

2006/11/17

アダン バレエ『ジゼル』(4)

 


第二幕

薄暗い森の中の墓場。ヒラリオンが現れるが、周囲の妖しい気配を感じてその場を去る。すると、ウィリ(精霊)の女王ミルタが姿を現す。ローズマリーを折り取り、従える精霊たちを呼び出す。このウィリは、処女のまま男に裏切られた乙女たちの霊なのである。ウィリたちは、ミルタを囲んで踊る。最後に新たにウィリとなったジゼルが墓から現れると、ミルタはローズマリーをジゼルの身体に触れさせる。ジゼルはウィリとなり、淋しげな踊りを舞う。

 

物音がして、ウィリたちは森の影に身を潜める。やってきたのは、アルブレヒトだった。ジゼルの墓に向かって近づいていく。自分の軽はずみな行動で愛するジゼルを死に追いやった責任を感じ、花を供えてうなだれている。するとウィリとなったジゼルが音もなく現れ、アルブレヒトは翻弄される。

 

森を彷徨ううち、やはり夜に森に入ったヒラリオンが、ウィリたちに取り囲まれて死ぬまで踊らされ、殺される場面に行き会う。男に裏切られ死んだウィリたちは、男を見つけると必ず取り殺すのである。アルブレヒトも見つかってしまい、ウィリたちに囲まれて踊らされる。そこへジゼルが現れ、ミルタたちにアルブレヒトの命乞いをする。ジゼルが必死にアルブレヒトを守るうち、森に夜明けが訪れる。ウィリたちは静かに、森の奥深くへ帰っていく。そして、ジゼルも静かに消えていくのであった。

2006/11/16

アダン バレエ『ジゼル』(3)

 




ジゼルが婚約していることを聞いたバチルドは、自分と同じだといって、お祝いの品として首飾りを与える。大公とバチルドは休憩のため家に入り、その他の一行は狩りを続けに出かけていく。誰もいなくなった広場にヒラリオンが現れ、ロイスの家の中から剣とマントを見つける。剣には家紋が入っており、ヒラリオンは彼の正体を見破る。ジゼルを欺いていたことに怒る。

 

クールラントの一向が戻ると、村人たちも現れてぶどうの収穫を祝う祭りが開かれる。ジゼルも加わり、楽しく踊る。そこへ、ヒラリオンが飛び込んできて、ジゼルにロイスが公爵アルブレヒトであると告げる。ジゼルは信じようとしないが、アルブレヒトに気づいたバチルドが近づくと、アルブレヒトは観念して膝を折り挨拶をする。バチルドの婚約者は、アルブレヒトだったのだ。それを見たジゼルは、アルブレヒトの裏切りに気づき狂乱する。身体の弱いジゼルは、ついに失意のまま息絶える。

2006/11/15

アダン バレエ『ジゼル』(2)

 



第一幕  ドイツの農村。ぶどうの収穫の時期。

この村に母親と二人で住む美しいジゼルは、向かいの家に住んでいるロイスを愛している。しかし、このロイスは実はシレジアの公爵アルブレヒトであり、戯れに村人になりすましているのである。

 

ある日、アルブレヒトは身分をあらわす剣やマントを従者に隠させて、ジゼルと会う準備をしている。それを森番のヒラリオンは目撃し、何事かと疑いを抱く。ヒラリオンはジゼルを愛しており、ロイス(アルブレヒト)のことが気になるのだ。

 

アルブレヒトの訪れに応えて家の外に出てきたジゼルは、愛を囁き合いながら楽しそうに踊る。村人たちも、賑やかに繰り出す。しかしジゼルの母は、ジゼルを心配そうに見つめる。ジゼルは心臓が弱く、激しい動きは命に関わるからである。

 

そこへ、狩りの角笛が響き渡る。クールラント公と娘バチルドが、ジゼルの住む農村に休憩に立ち寄る。貴族の一行は、ジゼルの家の前でミルクと果物を振舞われる。ジゼルはバチルドの豪華な衣装に惹かれ、つい触ってしまう。ジゼルのつつましやかな態度を好もしく思ったバチルドは、ジゼルを招きよせる。

2006/11/14

アダン バレエ『ジゼル』(1)

 



アドルフ・アダン(1803-1856)はパリ音楽院を卒業後、人気作曲家として成功を収めた。

 

アダンの時代には、バレエ音楽は踊りの技巧的発展に伴ってただの伴奏なってしまいましたが、アダンは「ジゼル」の音楽に「愛の主題」,「運命の主題」などの「モティーフ(主題)」を採用して、音楽とドラマを密接に関連づけ、音楽と舞踏の劇的展開の融合に成功し、ロマンティック・バレエの代表作として不朽の名作となった。

 

物語は、スラブ民話によるバラード「ヴィリの踊り」が元になっている。このヴィリはバンパイアに属する精霊で、結婚を目前に死んだ踊り好きな娘たちの霊魂が、生前満たされなかった踊りの情熱のために墓で安らぐことができず、深夜になると森で群れ踊り、通りかかった若者を捕らえて死ぬまで踊らせる、といった伝説である。

 

古典バレエの傑作として名高い「ジゼル」の作曲者アダンは、オペラやバレエなどの劇場音楽を得意とし、生涯に39のオペラと14のバレエ音楽を残した。中でも、バレエ音楽には傑作が多く「ジゼル」のほか「海賊」も現在でも根強い人気がある。

 

主役のジゼルは、踊りの技術だけでなく高い演技力が求められる難役だ。それだけやり甲斐もあり、誰もが一度は踊りたい役と言われる。またこのバレエは、音楽が単なる伴奏の域を超え、踊りと一体となって舞台を作り上げた最初の作品といわれ、後のチャイコフスキーらにも大きな影響を与えた。

2006/11/11

日本書紀に見る「葛城」の由来


<『日本書紀』では神武天皇が即位以前の己未の年、大和国で恭順に及ばなかった波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ)和珥坂下の居勢祝(こせはふり)臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)という三箇所の土蜘蛛をそれぞれ討ち取らせた。また高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)を編んで作った網を使って討っており、そのことに因んで地名を葛城(かつらぎ)と改めた、と記している。高尾張邑にいた土蜘蛛については、体が侏儒のように小さく手足は長かったと描写されている。
出典Wikipedia

葛城(かつらぎ、かづらき)は、奈良盆地の南西部を指す地域の名称。上代からの地名であるが、明確な範囲や境界を示すことは難しく、北の大和国(奈良市近辺)から西端の和歌山市友ケ島までの範囲に「葛木」という漢字をあてる文献も多数あり、古くからの山岳信仰から生まれた名称の色合いも強い。

神武天皇が、葛で編んだ網で土蜘蛛を捕らえたためと伝えられる

古墳時代でも有数の豪族であった葛城氏の勢力圏であったと考えられている。飛鳥時代の前半あたりには葛城県が、その後は葛城国が置かれたようである。

『延喜式神名帳』には、大和国忍海郡に葛木坐火雷神社二座と、これに合祀された為志神社を載せていることから、大和国が置かれた際の葛上郡・葛下郡・忍海郡のあたりが元の葛城国(葛城県)の範囲と推定できる。現在の行政区分に照らし合わせると御所市・大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡の一部もしくは、和歌山市友ケ島までの和泉葛城山脈全域が想定される。江戸時代の初め頃までは、この地が高天原であるとも考えられていた
出典Wikipedia

<葛城山にまつわる歴史は古く『日本書記』には「葛城」の名前の由来まで書かれています。神武天皇の頃、高尾張邑に土蜘蛛がいて、天皇軍はそれを捕らえるために葛のツタを使った、そのためその邑を葛城という>

しかし実際の調査や遺跡によると、葛城全体が未踏の地ではありませんでした。当時、奈良県北部(奈良盆地)の1/4を占める勢力として、葛城氏がいました。ご存知『白鳥異伝』の宮戸彦、加解姫のモデルとなったのがこの氏族。   『白鳥異伝』ではあまり書かれていませんでしたが、近年の調査により大変広大な勢力を持つ氏族だった事がわかっています。巨大な古墳、祭祀跡、住居跡、工房跡・・・西暦3世紀から6世紀頃まで、葛城氏がこの葛城山の麓で生活していた痕跡は、到るところで見つかっています>

 <葛城山山頂から見た奈良盆地からは、大和の国が一望できる。中央に大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)、奥に三輪山。『白鳥異伝』の頃の「まほろば」があるのは、左端の山の麓付近。大阪と奈良の県境にまたがる葛城山の麓で暮らす葛城氏の勢力下には、奈良盆地から大阪湾へと繋がっている大和川も含まれていました。

渡来系の工人(アクセサリーや工芸品などを作ったりする人々)を従え、葛城氏は次第に勢力を増していきます。まだまだ、大和朝廷(まほろば・大王サイド)が確固たる勢力を確立していなかった時代、お隣の氏族が持つ水運と広大な土地は脅威だったのでしょう。それゆえ次第に勢力を殺がれ、葛城氏は衰退していきます。しかし葛城氏が滅亡した後も、大和朝廷内にはその血が受け継がれました>

ポリネシア語による解釈
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
葛上(かつらぎのかみ)郡・忍海(おしのみ)郡・葛下(かつらぎのしも)郡。この三郡は大和川の南、金剛山地の北、葛城山脈の東麓の地帯で、葛下郡はおおむね現北葛城郡王寺町、上牧町、當麻町、香芝市、大和高田市の地域、忍海郡は現北葛城郡新庄町の中心の辺り(近鉄御所線の忍海(おしみ)駅があり、忍海の地名が残っています)

葛上郡は、おおむね御所市の地域で三郡の北は大和川、東は広瀬郡、高市郡、吉野郡、南は宇智郡、西は河内国に接しています。『和名抄』は「加豆良支乃加美」、「於之乃美」、「加豆良支乃之毛」と訓じています。

『日本書紀』神武即位前紀己未年2月条に、高尾張邑の土蜘蛛を「皇軍、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)い殺しつ。因りて改めて其の邑を號けて葛城(かづらき)と曰ふ」とあります。

この「かづらき」は
(1)
「葛の生えたところ」の意
(2)
「カヅ(カテ、カツラ。崖地、急傾斜地)・ラ、キ(場所を示す接尾語)」の意
とする説があります。

この「かづらき」は、マオリ語の「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=stockade,main portion of anything;rangi=sky,heaven,tower or elevated platform used for purposes of attack or defence of a stockade)、「空にそびえる砦(のような地域。そこにある山)」の転訛と解します。