アッシリア帝国滅亡後のアッシリア人
ニネヴェなど、アッシリアの主要な都市の幾つかは、アッシリア帝国滅亡時に破壊された。ヘロドトスの時代には、そこに住む者はいなかったという。だが、アッシリア人自体はある日突然絶滅するわけも無く、その後も生き続けアッシュール神に対する祭祀も継続されたと考えられる。アッシリア人自身が支配者として君臨することはその後二度となかったが、アッシュールやシャルマヌ、ニヌルタなど、アッシリア人が好んで名前に使った神の名を持つ人名が、その後も役人などの名前として記録されている。アケメネス朝からアルサケス朝時代にかけて、アッシリア人の多くはアッカド語(アッシリア語)ではなくアラム語を使用するようになったと考えられる。その後も、アッシリア人と思われる人名がサーサーン朝時代にまで登場する。
この生き残ったアッシリア人と、アッシリア人の末裔と主張するいわゆる現代アッシリア人の関係は、必ずしも明白ではない。現代アッシリア人に限らず、中近東のキリスト教徒共同体は起源譚として、古代オリエントの民族を持ち出す事が多い。少なくとも「民族」と言うものが、ある古代のある集団から真っ直ぐ繋がるというほど、単純なものではないと思われる。
古代オリエント世界の古典文学の多くが、後代に受け継がれず土に埋もれていく中、アッシリア人の歴史の多くも人々から忘れ去られたが、旧約聖書やギリシア人達の記録によって、僅かに後世に伝えられた。楔形文字の解読によって再びアッシリア人が歴史に大きく取り上げられるようになるのは、19世紀以降のことである。
『旧約聖書』とアッシリア
『旧約聖書』は、アッシリアについて著述された文献のうち、後代まで継続して受け継がれた数少ない文献の一つである。『旧約聖書』の中で、アッシリアは外敵として描かれる。取り分け『列王記』の中の記述では、アッシリアがイスラエルに攻め込んだ様、そしてイスラエル王国やユダ王国がそれにどのように対応したかが、宗教的修飾を伴うものの詳しく叙述されている。
概略は、プル王(ティグラト・ピレセル3世)がイスラエルに侵攻して以来、イスラエルとユダの王が時に貢物を贈って災禍を免れたことや、アッシリア統治下でイスラエル人達が各地に強制移住させられたこと、そして元の土地には入れ替わりにバビロニアなど、各地の人間が入植させられたことが記述されている。
また、『イザヤ書』の中では、主がアッシリアに罰を下すであろうこと、そしてアッシリアを恐れてはならないことが主張される他、『ナホム書』と『ゼファニヤ書』では、将来のアッシリアの滅亡が預言される。これらから、当時の被征服者達の対アッシリア感情の一端を垣間見ることができる。さらに、『ヨナ書』では被征服者から怨嗟の眼差しを投げかけられるアッシリアの都ニネヴェですら、ヤハウェ神の愛が及ぶことを説くことで、イスラエル人部族連合体の神から全世界を統べる唯一神への、ヤハウェ神概念の拡張が表現されている。
『旧約聖書』のアッシリア観は、近現代の研究者達にも多大な影響を与えた。現在、アッシリア学においては、信仰的な理解で『旧約聖書』を扱うことは一般的ではないが、古代の記録としての『旧約聖書』が極めて重要な史料であることに関して、疑いを入れる余地はない。またアッシリア王の名前は『旧約聖書』のヘブライ語表記に基づいたものが広く普及している(例えばセンナケリブは、アッシリア人自身の用いたアッカド語では「シン・アヘ・エリバ」となる)。
※出典 Wikipedia
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