アッシリアが、全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのが、この時代である。この時代は、古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表、リンム表、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。
アッシュール・ダン2世・アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのは、ティグラト・ピレセル3世の時代である。彼は、バビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた(シリア・エフライム戦争、バビロニア遠征)。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれて、この蔑称で記録されたとされる。
アッシリアは、この帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが、大量捕囚政策として知られる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれは、その組織性と規模において、史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的として、度々行われた。
後世には、こうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、アッシリアの支配を特徴付けるものと言われてきたが、アッシリアの帝国統治は単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた対応をとったことが、同時代記録の分析から明らかになっている。こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのような広域統治を行った帝国に継承され、その統治技術の基礎となったと考えられている。
その国家は、本国たるアッシュルの地と周辺の征服地域は強く区別された。本国は中アッシリア時代より拡大していたが、神格化された国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。各征服地が、どのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。ティグラト・ピレセル3世の治世から、アッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間に、アッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。
この時代のアッシリア政治史における重要案件は、バビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラム(フンバンタラ朝)の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王は、ほとんどいない。紀元前722年にシャルマネセル5世がイスラエル王国へ侵攻し占領したが、直後に死去。サルゴン2世は即位直後にバビロニアに離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争やバビロニア再征服が続く中で死去し、センナケリブが後を継いだ。エサルハドンの時代には、エジプトにまでその領域が広がった。
この時代のシリアにおけるアッシリアの行動は、ヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。アッシュールバニパルがエラムを滅亡(スサの戦い、en:Fall of Elam)させたものの、アッシュールバニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニアが独立して、その勢いはさらに増した。紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受け、首都ニネヴェが陥落した(ニネヴェの戦い)。
亡命政権がハランに誕生し、アッシュール・ウバリト2世が即位、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも、紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、アケメネス朝ペルシアは、アッシリアの行政機構の多くを取り入れた。
※出典 Wikipedia
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