2018/04/18

ソクラテス(2) 裁判と毒殺

裁判と毒殺
ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者を始めとして、様々な人を次々に訪ね「アポロンの宣託の通り、自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚してる自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持って、その活動にのめり込んでいくこととなる。

ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった。

そんなソクラテスを、喜劇作家のアリストパネスが『雲』において

「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する」

といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり、ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていたことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。

このため、ソクラテスは

「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」

などの罪状で公開裁判にかけられることになった。

アテナイの500人の市民が、ソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらが、その後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が、最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によって、あまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。

告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争と、その後の暴政(三十人政権)など複雑な事情があったと考えられる。ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自身の行為を謝罪することを決してせず、追放の手も拒否し結果的に死刑(毒殺刑)を言い渡される。

票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では、常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き、大多数で死刑が可決された。神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も、彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した

当時は死刑を命じられても、牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。

紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。この顛末は、弟子であるプラトンの著作『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』に詳しく書かれている。(ただし『パイドン』は、中期の作品であり、プラトン自身の思想がかなり強く反映されている。)

弟子について
ソクラテスには、カイレフォン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、「弟子」と看做されている人々が数多くいるが『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテス自身は「使命を果たさんとして語るとき、誰かそれを聴くことを望む者があれば、青年であれ老人であれ、何人に対してもそれを拒むことはなかった」、「(報酬を貰って教えるソフィスト達とは違い)貧富の差別なく何人の質問にも応じ、問答してきた」だけであって「かつて何人にも授業を約束したことも授けたこともなく」、「いまだかつて何人の師にもなりはしなかった」と考えており、彼の考えでは彼に弟子は一人もおらず、せいぜい「弟子」と看做されている内の何人かが、彼にとって友人・仲間であったに過ぎない

このように「師・弟子」、「師弟関係」という表現・捉え方は本来、ソクラテス自身にとって不本意なものであると同時に、彼の活動の動機やあり方、あるいは彼とソフィスト達との差異を見えづらくする、不適切なものである。
※出典 Wikipedia

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