2018/04/09

春秋時代(2)


春秋時代の諸国
この邲の戦い以降は、諸侯同士の争いは少なくなる。その理由は、諸侯の下にいた大夫(たいふ)・士(し)と呼ばれる中級から下級の貴族階級が勃興して、彼らに諸国の実権が移り、他国との争いよりも国内での同格の貴族たちとの争いに忙しくなったからである。

これら諸国の実権を握った貴族としては、晋の六卿(智・魏・韓・趙・中行・士(范)の六氏)斉の六卿(国・高・鮑・崔・慶・陳(田)の六氏)魯の三桓(仲孫(孟孫)・叔孫・季孫の三氏)鄭の七穆(罕・駟・豊・游・印・国・良の七氏)などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもあり、時には君主とも対立し、君主を殺害するようなこともあった。これらの現象は、伝統的な身分体制の崩壊も表している。この時期に儒教を起こした孔子も、このような伝統体制の崩壊に対する憤慨が、その学の源となったとも考えられている。

こういった背景から国同士の対立をあまり望まれなくなり、紀元前546年に弭兵の会が晋と楚の間で行われた。弭兵(びへい)とは、戦いを止めるということである。

貴族たちの伸張は、それまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政の舞台に押し上げ、この時期には名宰相と呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の晏嬰・鄭の子産・晋の羊舌肸(叔向)などがいる。また大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や魯の孔子などの活躍する小国外交が活発になった。子産は中国初の成文法を制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律はそれまで上流階級の中で暗黙の了解で行われていたが、新しく勃興してきた層階級の人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなったと考えられる。

この頃になると、君主は貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、晋では先述の六卿から2つが脱落した智・魏・韓・趙の4氏に完全に牛耳られ、斉ではかつて陳より亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、楚では有力貴族と王族との争いで国政は混乱した。

春秋時代の諸国
一方、南の長江流域では、呉・越という2つの新興勢力が興っていた。呉は闔閭・夫差2人の君主と名臣孫武・伍子胥、越は君主勾践と名臣范蠡の力により急速に勢力を拡大した。呉は楚の首都を陥落させ、滅亡寸前に追い込むほどの力を見せる。さらに越を撃破して服属させ、黄河流域に進出して諸侯の盟主の座を晋と争った。しかし、一旦屈服した越の入念な準備に基づいた反撃により、呉は滅亡する。越も勾践の死後は振るわず、後に楚に滅ぼされた。

完全な異民族が中原の覇者となったことで、周王朝を中心とする秩序が無意味化したこと、呉越は製鉄の先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入ること等から、呉越抗争の直後から戦国時代とする説もある。

その頃、晋では紀元前453年に智氏が魏・韓・趙の3氏の連合により滅ぼされる。智氏の旧領を分け取りにしたことで、さらに力をつけた3氏は、それぞれ魏・韓・趙の国を建てた。この3つを合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は、紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められた(もっとも、この段階では晋も小諸侯に没落した形で、紀元前376年まで存続している)。

この時点をもって春秋時代は終わり、戦国時代に入る。前後して、斉ではほぼ完全に田氏に国政を牛耳られ、紀元前386年に田和により簒奪され、太公望以来の斉は滅びた。これ以降の斉を、それまでと区別して田斉とも呼ぶ。

春秋時代は「宗法」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。三軍を有したのは晋・楚・斉ぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、周は春秋時代から急速に衰え、六軍は形成できなかった。晋では文公の時、新たに三軍を加え六軍としたが、ほどなく廃止されている。

軍が巨大化しなかったのは、周王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の戦国時代よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる(鉄は戦国時代から使われ出す)。

この頃の主な戦争は兵車戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが中華圏の人であり、馬に直に騎乗するのは狄戎(異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っており、古風であるといえる。

春秋時代以降、見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。

それに、この時代特有の光景も見られる。たとえば「鄢陵の戦い」でのことである。晋の大夫・郤至が敵国である楚の共王を発見した。郤至は共王を見ると兵車を降り、冑を脱ぎ走り去った。共王は好感を抱き郤至に弓を贈らせたが、受け取らず自分の無事を告げて粛という礼を3回した。また、晋の君主厲公の車右である欒鍼は、敵軍の子重(嬰斉)の旗を見つけると、晋軍の勇を見せるため厲公に頼み込み酒樽を送ってもらった。という風に「」を重んじた戦が展開されたのが、この時代である。戦国時代からは、この光景は見られず、戦における「礼」は消失した。
※出典 Wikipedia

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