行事と食文化
はじめに
日本人の生活のなかには、日常生活と別に特別な(ハレの日)がある。ハレの日には2種類あって、1つは毎年同じ時期にめぐってくる年中行事、そしてもう1つは、人の一生の間に経験する誕生から成人、結婚、還暦といった人生の節目にあたる日、これを人生儀礼とよぶ。年中行事には初午やお盆など、日本の民俗に根ざしたものや、中国の影響のもとに日本化した五節句などがあり、それ以外にも祭礼に伴うものなどがいくつもある。それぞれの行事には、特別な日(ハレ)にまつわる食べ物やしつらい、しきたりがあり、旬の食材の働きやその季節にふさわしい状態でからだに取り入れる工夫をみることができる。
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行事の食
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年中行事
季節の移ろいとともに暮らす日本には、月ごとのハレの日がある。その基本的な行事である五節句とは、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)のこと。奈良時代から平安時代にかけて、中国からもたらされた風俗や暦法を日本固有の行事と習合させたもので、中国の重日(奇数が重なる月日)の考え方によるものである。いずれも身についたけがれを払う厄払いの行事で、ご馳走をつくって神に供え(神霊に供物を供える日として「節供」ともあらわされる)、人々が集い神と共に食事をする、いわゆる神人共食の特別の日のことである。
節というのは季節のことで、その季節のかわり目を節日といい、新しく迎える月日を無事に過ごせるようにと願うところから、いろいろな行事が生まれた。通俗には、七草の節句、桃の節句、菖蒲の節句、七夕祭、菊の節句ともよばれ、宮中で行われていた行事が武家社会へ伝えられ、永い日本文化の流れの中で庶民の生活のサイクルとして普及したものである。
正月
一年の始まりを祝うお正月は、単調な日常を破る最も大切な節日である。正月飾りの門松は、松は依代(よりしろ)といって神様がおりてくるときの目印とされる。蓬莱(ほうらい)飾りは、蓬莱山という神の山を床の間に形作ることで、神をそこへ招き寄せ福をもたらしてほしいと願うもの。お正月飾りには、このような『招福』と、災いを打ち攘う『攘災』の2つの願いがこめられている。
お正月に食べる雑煮は、武士の習慣の名残である。雑煮は武士にとって一番大切な正式の肴で、宴会で行われる主君と家臣の盃の応酬、「式三献」の初献の肴が雑煮であった。それがお正月の肴として伝えられ、必ずお屠蘇を飲んで雑煮を食べる約束事になっていた。雑煮に入っているお餅は大切な決まり事で、丸餅は魂の象徴とされる。魂は「玉」であるから、新しい年の魂をいただき一年を元気に過ごすという、それは歳神の力をいただくことでもあった。お年玉も同じ意味である。
1月11日に食べる鏡餅は「歯固め餅」とも呼ばれ、歯は年齢に通じ、お正月の最後に鏡餅を食べて歯を丈夫にするという意味があり、延命長寿を願うものなのである。お正月は、お飾り、雑煮、初詣などのひとつひとつに祈りや願いを込めて、ハレの日を迎え祝う行事なのである。
人日(1月7日)
人日とは、古代中国の年中行事を記した『荊楚歳時記』に人を占う日として人日とよび、七種菜の羹を食し無病を願う行事と記されている。わが国では、正月の若菜摘みの習俗と中国の行事と合体して、七草粥が生まれたとされる。この日、平安時代には七草粥は公式行事に入らないが、室町時代から江戸時代にかけて、七種類の若菜を粥に入れて食べる七草粥の風習が形を整え、五節句の一つに加えられたのである。
平安時代当時は羹(熱い汁)であったが、室町時代から粥になる。七草とは、芹・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろの七種のことで、新年にあたり野草を食べると、その強い生命力にあやかり長生きができるとされた。宮中では水無瀬神宮より七種の菜を献ずるしきたりがあり、民間では「唐土の鳥が日本へ渡らぬさきに七種なずな」という七草囃子をうたいながら、七草をきざむ習いがあった。これは年頭にあたり農作物の敵である鳥を追う祈りでもある。七日正月に七草粥を食することは、元旦から続く正月行事が終わる直会の日であり、餅に疲れたお腹を休めるための理にかなった行事なのである。
上巳(3月3日)
上巳とは、3月はじめの巳の日、重三、桃の節句、雛の節供とも呼ばれ、その起源は、身のけがれや不浄をはらう行事である。奈良時代に、中国の影響をうけた「曲水の宴」が朝廷の節会にもとりいれられ、平安時代には水辺で人形にケガレを移して厄をはらう日本古来の信仰と水に対する信仰が結びつき、ケガレを人形(形代)に写して水に流す行事となった。したがって、雛を川に流す、いわゆる流し雛の姿が雛祭りの原型である。
その後、可愛らしい人形道具で遊ぶ「ひひな遊び」とも結合して、女性の遊びとなり、江戸時代には女性の成長を祈る女の子の節供として、雛人形を飾るようになったのである。人形も将軍家へ献上するため一対「夫婦和合」となり、美しい雛がつくられ調度品もふえ、元禄より段飾りがつくられ雛道具技術の最盛期を迎えた。雛祭りのお供えには、桃花酒、よもぎ餅、白酒、蛤がある。桃は魔をはらう神聖な木とされ、よもぎもその香りが邪気をはらうという、いずれも強い生命力を象徴するものとされた。
菱餅は草もちをひし形にしたもので室町時代より祝いの席でもちいる餅でもあった。蛤や行器(食べ物を運ぶ足つきの曲物の道具)を飾るのは、春磯遊びの風習が雛祭りに結びついて雛道具の一つとして飾るようになったもので、3月3日に海や山へ重箱を持参して遊びに行き、神に供物をささげ共飲共食をする儀礼が変化したもののあらわれでもある。
端午(5月5日)
端午とは、月のはじめ(端)の午の日の意味で重五、菖蒲の節句、男の子の節句ともよばれる。5月は物忌みの月とされ、中国の古俗によると「悪月」として忌まれ禁も多く、採薬行事、蘭湯、五綵(五色の意)の糸をひじにかけて魔よけとし疫病を払い、頭に挿したり、菖蒲や蓬を飾り邪気をはらうなど、災厄をはらう目的の行事が行われた。また、田植えの時期でもあり、豊穣を祈るためのものであった。
これらは奈良時代にわが国に入り、陰暦五月が田植えに伴う禁欲期と物忌み月であった習俗に加わって、朝廷において農耕予祝儀礼の端午の節会として採用され、江戸時代には民間の行事としてより盛んになるのである。
端午の節供には、菖蒲葺、菖蒲酒、薬玉、競馬、騎射(のちに流鏑馬)等々のさまざまの行事がみられる。菖蒲や薬玉には強い香があり、この香の力に疫病を駆除する呪力があると考えられた。特に菖蒲には、害虫や伝染病からの解毒作用も期待されたのである。また宮中で行われた騎射行事は現在の流鏑馬やぶさめとなり、民間では菖蒲に尚武の精神を通わせ、男の節句らしい行事となる。江戸時代には武家から町屋まで五色の幡をたて人形を飾り、座敷のぼりや鯉幟もたて、悪いものを除去し強い男の子になることの願いをこめられたものとして、現在の飾りとなっていくのである。
端午の節供の食べ物には、粽、柏餅がある。粽は中国の古事によるもので邪気をはらうものとされ、柏餅は、新芽が出るまで親の葉が枯れ落ちないことから代々、継承を約束するご馳走として用いられたのである。
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