口語訳:そこから移動して、忍坂の大室に到った時、尾の生えた土蜘蛛の八十建がその室で待ち受けていた。そこで天神の御子は、八十建を饗応することにして、彼らにそれぞれ八十膳夫(接待役)を設け、それぞれ刀を持たせた。そして膳夫たちに「歌の合図を聞いたら、一斉に切ってしまえ」と教えた。その歌は
「忍坂の大室屋に、大勢の人が来て入っている。大勢の人が入っていても、みつみつし、久米の子が、頭椎の太刀、石の槌でもって、撃ってしまおう。みつみつし、久米の子等が、頭椎の太刀、石の槌でもって、それ、今撃てばいいぞ」
こう歌って、太刀を抜き、一度にみんな打ち殺した。
「自2其地1(そこより)」は宇陀からである。
○忍坂(おさか)は和名抄に「大和国城上郡の恩坂は『おさか』」【「恩」の字は「忍」の誤りだろう。「恩」も「お」の仮名に使えないことはないが、やはりこの字ではないだろう。】延喜式神名帳に「同郡、忍坂山口坐(おさかのやまのくちにます)神社」、また「忍坂坐生根(おさかにますいくね)神社」などがある。諸陵式にも、押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)は、大和国城上郡にある」と見える。今も忍坂村がある。書紀の垂仁の巻にも「忍坂の邑」と見え、万葉巻十三【三十一丁】(3331)に「青幡之忍坂山者、走出之宜山之出立之妙山叙(あおばたのオサカのヤマは、ハシデのよろしきヤマのイデタチのくわしきヤマぞ)」とある。【延佳がこれを大坂と同一視して言った説は、大外れだ。大坂は玉垣の宮(垂仁天皇)の段に出る。そこで言うのを参照せよ。】
○大室(おおむろ)。室は和名抄に、「白虎通にいわく、黄帝は室を作って寒暑を避けた。和名『むろ』」とある。【師は歌によって、ここの室も「むろや」と読んだ。】室一般のことについては、甕栗の宮(清寧天皇)の段に「新宮」とあるところ【伝四十三の八葉】で言う。ここにあるのは土雲の住処だから、書紀に「ムロ(穴かんむりに音)を掘る」とあるように、土中の室で、【ムロ(穴かんむりに音)は、字書に「地室」と注してある。仁徳紀で、窟も「むろ」と読んでいる。】山腹などの横穴を掘り、岩窟のようにしたものを言うのだろう。【平地を下へ掘ったものではない。】「大室」と言うから、その内部は大変広かったのだろう。書紀の綏靖の巻に、「手研耳命は片丘の大ムロ(穴かんむりに音)の中で、大牀(おおみとこ)に一人で寝ていた」とあるのは、普通の部屋で広いのを言うのだろう。【ただし、これも「片丘の」と地名を挙げているから、掘った土中の穴とも考えられる。】
ところでここは、「到2忍坂1之時、生レ尾・・・在2大室1(オサカにいたりまししとき、オある・・・オオムロにありて)」と書くべきだろうが、「到2忍坂大室1」とあるから、何だか「大室」が地名のように聞こえる。これは後の歌に「意佐賀能意富牟廬夜(オサカのオオムロヤ)」とあり、当時名高い室だったので、この歌によってこう書いたのだろう。
○生尾(おある)というのは、上の吉野の段にもあったように、非常に遠い昔には、そういう人もいたのだろう。書紀の神功の巻に、羽白熊鷲(はじろくまわし)という人物が翼を持っていて、空を飛び翔ったことが出ている。
○土雲(つちぐも)。「雲」は借字である。書紀のこの巻に、「ソ(尸に曾)富縣(そふのあがた)、波タ(口+多)丘岬(はたのおかざき)に新城戸畔(にいきとべ)という者がいた。また和珥坂下(わにのさかもと)に居勢祝(こせほふり)という者がいた。臍見長柄丘岬(ほぞみのながらのおかざき)には猪祝(いのほふり)という者がいた。この三箇所の土蜘蛛は、いずれも勢力があり、天皇に仕えることを肯んじなかった。天皇は軍の一部を派遣して、みな殺してしまった。
また高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛がいた。その人は短身で手足が長かった。侏儒(こびと)の類である。皇軍は葛の網を作って、打ち掩って殺した。」【摂津国風土記に、「宇禰備(うねび)の可志婆良(かしばら)の宮で天下を治めた天皇の世に、土蛛(つちぐも)という者がいた。この人は常に穴に住んでいた。それで賤しんで土蛛という名を与えた」とある。】
また景行の巻に、「速見の邑に到ると、そこには速津媛(はやつひめ)という女がいた。この邑の長である。彼女は天皇がやって来たと聞いて、自分で迎え出て、『この山に大きな洞窟があります。鼠石窟(ねずみのいわや)と呼んでいます。その洞窟に二人の土蜘蛛が住んでおり、一人は青(あお)、一人は白(しろ)といいます。また直入縣の禰疑野(ねぎぬ)というところにも土蜘蛛が三人います。一人は打猿(正字はけものへん+爰)(うちさる)、一人は八田(やた)、一人は國摩侶(くにまろ)といいます。この五人はみな力が強く、その徒党も大勢います。みな天皇の命には従わないと言っています』云々」とある。
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