出典http://ozawa-katsuhiko.work/
日本にも、伝来の神々というものがおりました。それは「自然神」であった場合と「朝廷の神」とであった場合がありましたが、いずれにしても「日本の神」でした。ところが、朝鮮から「日本の朝廷に献上される」という形で日本に「仏教」が伝来してくると、この伝来の神々と仏教とは融合してしまうのでした。それを一般に「神仏習合」と呼んでいます。
この「仏教」と「神道」の習合の原因や仕方は様々ですが、それを見ることは「日本人の神観念」を見る上で欠かせませんので、ここではそうした原因の中でも特に特徴的と思われる場面を見ていきたいと思います。
仏教に期待された働き
とりあえず真っ先に言えることは、在来の神道に対して仏教が「外来・異質」のものとして輸入されてきたのではなく、「朝廷・貴族の守護神」という「神道の神」のように理解されて移入されてきた、ということが大事です。
すなわち「神」の一人(要するに「外来の神」、「蕃神」といいますが、そういう神として)受容されたということで、対立から和解・併存、やがて妥協・融合といった、ついうっかり考えがちな経緯を経たものではない、ということが指摘されるでしょう。要するに、初めから仏教は「神道の一部」みたいな形で移入されたのであり、初めから「仏」は「神の一人」とみられていたということです。これは日本仏教を理解する上で、非常に大事なことです。
その神道的なものとは、一言で言って現世利益的な「繁栄・救済・保護」の願いを司るものということです。神道が「繁栄・守護」を目的としていたことは、すでに述べておきました。仏教も、こうした働きのものとして受容され発展していったのです。
「仏教」というのは、発祥である本来のお釈迦様の段階では「悟りを開く」のが目的ですが、後世になって「仏に救っていただく」という思想も持つようになっていきます。その「救済の力」が「現世利益」に求められる場面が、実は日本に入ってくる以前の仏教にもありました。
その現世利益というのは「守護力」に求められました。「病気や災厄からの守り」であり、これは一般庶民の願望と結びついて一般化していきます。そしてもう一つが、同じ願望なのですが「朝廷・貴族」が求めた「護国・鎮守」という形になります。こうして貴族たちは仏教を保護し、仏教の側も「勢力拡大」のため朝廷・貴族と結びついていきました。「護国・鎮守の呪術の仏教」というわけですが、こうした「災厄からの守り」を求める仏教というのは、仏教の展開史において「庶民の仏教」を標榜して「民間信仰」と結びついていった「大乗仏教」運動で大きく推進されていったと言えます。
融合の経緯
一般に「宗教は対立する」と考えられがちですが、それは「キリスト教やイスラーム」などがそうであるからで、古い昔の「民族の宗教」では対立ということはほとんどありません。ギリシャとエジプトの神々も対立していませんし、ローマの神々などギリシャの神々と融合してしまいました。それは「働きが同じ」だったからです。
日本が「新来の仏教」と「在来の神」とを融合させたのも同じ理屈からです。それは、「在来の神」が新来の仏を「自分たちとおなじ働きのもの」として扱ったからです。
そして仏教の方も「自分は全く神道とは異質のもので働きも神道とは異なり、釈迦本来の教えである現世否定で、出家を条件として修行で悟りを得ることが目的だ」などとは決して主張せず、むしろ「護国、守護」の呪術的なものだとして「神道と同じ土俵のもの」であることを主張したので、簡単に受容され得たのでした。こういった在り方が「神仏習合」というものの在り方だったのです。
ですから、仏教が日本に移入された時「本来の仏教」が全く誤解されてしまったというわけのものではないのです。確かに、本来の仏教は「悟りを開く」ことが目的で「現世否定的」で、「出家=家・社会を捨てる」ことを要求し、「個人の魂の救済」を企図するものでした。これは後の日本の仏教も取り戻してはおりますが、しかし、これを初めから主張してしまうと、仏教は神道とは真っ向から対立してしまうのです。
ところが、仏教は長い歴史の中に変質し、大衆化し、その限りで「現世利益」的となり、またそうであることによって、すでに早い時期から「朝廷・貴族」とも結びついていたのでした。
しかも、仏教が日本に着くまでには「中国・朝鮮」を経ているのでした。この間に仏教が相当に変質しているであろうことは当然です。仏教は、すでに中国で「皇帝」のものとして「護国」的に働く側面を見せておりました。もちろん、一般大衆教化の働きも存在はしていたのですが、日本における仏教の受容が「朝廷」であったということは、移入された仏教の性質をよく語っているのです。つまり、初めから仏教は「朝廷のもの」であったということで、そうした「国家守護」という働きとしての仏教であったなら、これは当然「神道」の働きと同じですから、抵抗感なく受容されたのです。
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