出典http://ozawa-katsuhiko.work/
このいきさつはかなり知られており、仏教の「公式な伝来」は欽明天皇の時代で『日本書紀』では552年ということですが(19巻、欽明天皇の巻)、他の資料では538年となり、一般的には538年説となっています。送り手は「百済の聖明王」であり、つまり「朝廷」から「朝廷」へというものでした。もちろん「渡来氏族」が仏教を早くからもたらしていた可能性はありますが、これについては何ら確かなことはいえません。
ともかく、この欽明天皇へのものが最初としておきましょう。この時、欽明天皇は『日本書紀』の記述によると、使者に対しては大喜びして「自分は、いまだかつてこんな深遠な教えを聞いたことがない」などと言っているくせに、臣下たちに対しては「西国(百済)からもらった「仏」は、見た目は立派だけど、敬うべきなのか否か、どうだろうか」などと言っているのです。
これに対して、蘇我稲目は「向こうではみんなが敬っているのですから、どうして日本だけが一人これに背くことができましょう」と答えていますが、物部尾輿が「我が国では、王たるもの常に数多おります神々に一年中祭りをなすのを仕事としているのであって、いまさら蕃神(外国の神)などを礼拝したら恐らく国の神々が怒ることでしょう」と言ってきています。この返事は、日本の神が「地域性」をもっていて「氏子」以外の者に祭られるのを喜ばない、という性格を持っていることから、ある意味で正当な答えでしょう。そこで二つの答えに困った天皇は、「稲目が願っているのだから、試みに礼拝させることにしよう」ということにさせました。
このやりとりはけっこう面白いもので、まず天皇が戸惑っている様子がみてとれます。この「仏」に対して評価を下せないということで、その原因は物部尾輿の言葉に明確に現れているように、この「仏」が「神」だと思っているからでしょう。つまり、「神」は「神」なので礼拝すべきなのだろうけれど「外国の神」だから、その正体がよくわからずどうしょうか、といった感情なのでしよう。
これはみんな同じ感情であるようで、そこで蘇我稲目は、やっぱり「神」なんだから礼拝すべきでしょう、と答えたわけですが、尾輿は「国の神」の方を大事にすべきだろう、と言ってきたわけです。
こんな具合に「仏」は本質的に在来の神のレベルで捉えられていることが明らかです。そして天皇は稲目に「試しに」礼拝させるというわけですが、何を「試して」いるのでしょうか。それは後の記述が明らかにしてきますが、要するに「幸いの招来、災害・害悪の防御」ということで、在来の神に期待されていたものです。つまり「守護神」としての能力の大きさを試させたのでした。
結果は困ったものでした。つまり、稲目が「仏」を祭ったところ、疫病が流行ってしまいました。そら見たことか、と尾輿たちは天皇に申し上げて「仏」を海に捨てさせます。ところが、今度は天変地異が起きてしまいます。そしたら今度は「海に仏を捨てた祟りだ」といった具合でした。右往左往です。こうして勝負がつきません。こういうことで、どうも「新来の仏」派と「在来の神」派との間で、不穏な情勢が生じたようでした。これには多分に「政治的勢力争い」が根底にあったでしょう。
しかし、いずれにせよ困った事態で、そこで586年に即位した用明天皇(欽明天皇の第四子)は「自分は仏法を信じ神道を尊ぶ」というような言い方で和解の道を探ったようですが(『日本書紀』21巻)、結局だめで、蘇我馬子が物部氏を襲い、これを滅ぼしてしまいました。
こうして「力づく」で仏教の勝ちにされ、これ以降朝廷は「仏教色」に彩られることになるのですが、もちろんこの仏教は「護国・鎮守、幸いの招来」を旨とする「在来の神の仕事」をする仏教でして、現世利益を目的とし、決して「出家して悟りを開き、魂の平安を得る」といったものではありませんでした。
これは「聖徳太子」の場合も同様で、彼は「渡来した新しい神(つまり仏)」によって旧弊の朝廷政治の在り方を変えようとしたのであって、仏教教理に感動して「魂の救済」を志したわけではありません。
以上が、仏教伝来時の状況でした。そして、この伝来時の状況の中で「神の道」というのが大きく意識されたのでしょう。用明天皇の場面で「神道」という言葉が史上初めて使用され、「神道」というものの存在が明確に意識されてきたのです。
一方、こうなるには仏教の方がすでに「守護神」といった性格を持っていたことが原因であったわけですが、どうして仏教にそうした性格が持たされていたのかも考えておかなくてはならないでしょう。
つまり、仏教は確かにお釈迦様の場面では「悟りを開く」ものでした。ところが、これが歴史的に発展していったとき、先ずは朝廷・貴族のものとして「守護神」と捕らえられ、さらに民衆段階に降りた時も「民衆の願い」に応えるものとなっていきます。いずれにしても「守ってくれる」という性格が要求されたのです。「極楽浄土」の願望も要するに、そのレベルでの「救済願望」だったのです。
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