2022/02/20

アオルソイ ~ 民族移動時代(11)

両軍は合同して縦隊をつくり、進軍を開始した。前部と後尾はアオルシー族が、中央はローマの援軍とローマ風に装備したボスポロスの部族が固める。こうした隊形で敵を撃退しながら、ダンダリカ王国の首邑ソザに達した。すでにミトリダーテスがこの町を放棄していたため、ローマ軍は予備隊を残して監視することにした。

 

次いでシラキー族の領地に侵入し、パンダ河を渡り首邑ウスペを包囲した。この町は丘に建てられ、城壁や濠で守られていたが、城壁は石ではなく柳細工や枝細工を積み重ねたものに土を詰めただけのものであったため、突破するのにさほど時間がかからなかった。包囲軍は壁より高い楼を築き、そこから松明や槍を投げ込み敵を混乱に陥れた。

 

翌日、ウスペの町は使節を送ってきて「自由民に命を保証してくれ」と嘆願し、奴隷を一万人提供しようとした。ローマ軍はこの申し出を断り、殺戮の号令を下した。ウスペの町民の潰滅は、付近の人々を恐怖のどん底に陥れた。シラキー族の王ゾルシーネスは、ミトリダーテスの絶体絶命を救ってやろうか、それとも父祖伝来の王位を維持しようかと長い間考えあぐねた。遂に自分の部族の利益が勝って、人質を提供しカエサルの像の下にひれ伏した。

 

こうしてローマ軍は、タナイス河を出発して以来、三日間の行軍で一滴の血も失わずに勝利を勝ち取ることができた。しかしその帰途、海を帰航していた幾艘かの船が、タウリー族の海岸に打ち上げられ、その蛮族に包囲され、援軍隊長とその兵がたくさん殺された。

 

ミトリダーテスは自分の軍隊を少しも頼れなくなり、アオルシー族のエウノーネスに依ろうとした。ミトリダーテスは、服装も外見も現在の境遇にできるだけ似つかわしく工夫し、エウノーネスの王宮に赴いた。

 

エウノーネスは、盛名をはせたこの人の運命の変わり方と、そして今もなお尊厳を失わぬ哀訴に、ひどく心を動かされた。そして嘆願者の気持ちを慰め、ローマの恩赦を乞うために、アオルシー族とその王の誠意を択んだことに感謝した。さっそくエウノーネスは、使節と次のような文書をカエサルの所へ送った。

 

「ローマの最高司令官らと偉大な民族の王たちの友情は、まず地位の相似から生まれている。予とクラウディウスは、その上に勝利を分けあっている。戦争が恩赦で終わる時はいつも、その終結は輝かしい。このようにして、征服されたゾルシーネスはなにも剥奪されなかった。なるほどミトリダーテスは、さらに厳しい罰に価する。彼のため権力や王位の復活を願うのではない。ただ彼を凱旋式に引き出したり、斬首で懲らしめたりしないようにと願うだけである。」

 

ウァンニウスに従軍するイアジュゲス族

かつてローマのドルスス・カエサルが、スエビ族の王位に据えていたウァンニウスが内紛によって放逐されたため、ウァンニウスはローマに支援を求めた。しかし、クラウディウス帝(在位:41 - 54年)は、蛮族同士の争いに軍を派遣したくなかったので、戦闘はせず最低限の軍を川岸に配備するのみで、ウァンニウスには避難所を与えてやった。

 

ウァンニウスには、彼の部族(クァディー族)の歩兵と、サルマタイのイアジュゲス族の騎兵が味方となった。敵はヘルムンドゥリー族、ルギイー族など数が多く、太刀打ちできないと思ったウァンニウスは、砦にこもって籠城戦に持ち込もうとした。しかし、敵の包囲にたまりかねたイアジュゲス族が打って出たため、ウァンニウスも出る羽目になり敗北を喫した。

 

アランの登場

1世紀になると、文献からアオルシ(アオルソイ)の名が消え、代わってアランという名の遊牧民が強大となる。このことは漢文史料にも記されており「奄蔡国、阿蘭と改名す」とある。この奄蔡はアオルシに、阿蘭はアランに比定されている。考古学的には、2世紀から4世紀における黒海北岸の文化を後期サルマタイ文化と呼んでいるが、この文化の担い手はアランであるとされる。アランについて、4世紀後半のローマ軍人アンミアヌス・マルケリヌスは「彼らは家を持たず、鍬を使おうともせず、肉と豊富な乳を常食とする」と記している。

 

後に、アランは北カフカスから黒海北岸地方を支配し、その一部はパンノニアを経てフン族に起因する民族移動期にドナウ川流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植した。さらに、その一部はバルバロイを統治するため、ローマ人によってブリテン島へ派遣された。また、その他の一部はイベリア半島を通過して、北アフリカにまで到達した。アランより前にパンノニアに進出し、ローマ人によってブリテン島の防衛に派遣されたイアジュゲス族も、ブリテン島にサルマタイ文化の痕跡を残した。

出典 Wikipedia

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