犬山城は、愛知県犬山市にあった城である。
また、現存天守は国宝に指定された4城のうちの一つである。
犬山城は、木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。
別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで、荻生徂徠が命名したと伝えられる。
前身となる砦を織田信長の叔父である信康が改修して築いたものを石川光吉が改修し、現在のような形となった。
この際の建築用材は、金山城の建物の一切を解体移築したという「金山越」の伝承がある。
江戸時代には尾張藩の付家老が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。
現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。
近年まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在は財団法人に譲渡されている。
●戦国時代・安土桃山時代
●戦国時代・安土桃山時代
1469年(文明元年)、織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。
1537年(天文6年)、織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った。
現存する天守の2階までは、このころ作られたと考えられている。
1544年(天文13年)
、信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる。
1564年(永禄7年) 、織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。
以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。
本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。
1584年(天正12年)、
突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって奇襲を受けて奪われた。
これは、まもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。
戦後は再び信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。
豊臣時代には、石川貞清が城主となった。
かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。
●江戸時代
●江戸時代
石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。
1601年(慶長6年)、小笠原吉次が城主となる。
1607年(慶長12年)、
平岩親吉が城主となる。
1617年(元和3年)、親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。
以後、徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。
●近現代
明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いて櫓・城門など殆どが取り壊された。
1891年(明治24年)の濃尾地震で天守の東南角の付櫓が壊れため、1895年(明治28年)に城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。
また1959年の伊勢湾台風で被害を受けたため、1961年から1965年まで解体修理を行った。
2004年(平成16年)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月に財団法人犬山城白帝文庫に移管されている。
●天守
天守南面犬山城の天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。
天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。
地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。
天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルある。
天守の高さは19メートルある。
・1階:納戸の間、東西9間・南北8間 床面積は282.752平方メートル
・2階:武具の間、東西9間・南北8間 床面積は246.006平方メートル
・3階:破風の間、東西3間・南北4間 床面積は81.936平方メートル
・4階:高欄の間、東西3間・南北4間 床面積は49.835平方メートル
昭和36年 - 40年に行われた犬山城天守の解体修理と古文献などよって、この天守は下の2重2階の主屋が1537年(天文6年)または、1601年(慶長6年)に建てられ、1620年(元和6年)頃に3、4階を増築。
●遺構
現存する天守は、1935年(昭和10年)に国宝保存法に基づき当時の国宝(旧国宝)に指定、1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づき、改めて国宝に指定されている。
廃藩置県の際に払い下げられた建造物として、矢来門が専修院東門に、黒門が徳林寺、松ノ丸門が千秋寺、内田門と伝わる城門が瑞泉寺にそれぞれ移築され現存する。
また、どこの門かは不明であるが、いくつかの城門が蓮善寺他に移築現存する。
※Wikipedia引用
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