2003/06/27

清洲城

清州は歴史的に徳川家康による清洲越しで、城下町が丸ごと名古屋に移転するまで、織田信長の青年時代の根拠地清須(清洲)、安土桃山時代に福島正則が城主だった城下町という由緒がある。

また江戸時代以後は、美濃街道の宿場町「清須宿」、同街道の市場「枇杷島市」が存在していた。

枇杷島市においては、その財力を背景に江戸時代より町内会ごとに名古屋型山車が作られており、江戸時代末期の1802年(享和2年)より尾張西枇杷島まつりが行われている。

当祭は、名古屋東照宮の祭礼の形態を引き継ぐ数少ない祭として知られている。

清洲城は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場=旧西春日井郡清洲町)にあった城で、清須城とも表記される。


尾張国の中心部に位置し、一時期尾張国の守護所として栄え、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する交通の要所として重視された

応永12(1405)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。

当初は尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8(1476)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10(1478)に守護所が清須(=清洲)に移転する事で尾張国の中心地となった。

一時期、「織田弾正忠家」織田信秀が清須奉行として居城した以外は、常に清洲織田氏(織田大和守家)の居城としてあり、尾張下四郡の守護代織田家の本城として機能した。

織田信秀が古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555)織田信長によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。

信長は桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須に居城したが、永禄6(1563)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

天正10(1582)、本能寺の変で信長が斃れると清洲会議の舞台となり、次男・織田信雄が相続した。

天正14(1586)に信雄の手によって、二重の堀を巡らし大天守・小天守・書院等の造営が行われている。

小田原合戦で信雄が豊臣秀吉に逆らい除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4(1595)には福島正則の居城となった。

慶長5(1600)の関ヶ原の戦いの折りには東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、関ヶ原の戦傷が元で病死すると、慶長12(1607)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。

慶長14(1609)、徳川家康によって清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15(1610)より清須城下町は名古屋城下に移転(清洲越し)し、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用された。

特に名古屋城御深井丸西北隅櫓は、清須城天守の資材を元に作られたため「清須櫓」と呼ばれる。

慶長18(1613)、名古屋城の完成と城下町の移転が完了した事により廃城となる。

●清須城と清洲城
地域や城郭の名称として「キヨス」を表記する際「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合があるが、どちらも正しく同じ地域や城を示している。

伊勢神宮領を記録した、14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」として記載されているのが最古の記載としているが、諸説ある(「清須市」も参照)。

信長公記では清洲、三河物語では清須と記載されている。

現在再建されている清洲城は、旧・清洲町の町制100周年を記念して平成元年(1989)に再建されたものだが、資料が殆ど残っていないため外観は想定して作られている。

また城跡も開発の犠牲で大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。

そのため現在の清洲城も、実際の位置とは別の位置にある清須市清洲地域文化広場内に建設されている。

 
東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。

名古屋城御深井丸西北隅櫓は現存し、重要文化財に指定されている。

尾張旭市の良福寺山門は裏門を移築されたものといわれ、指定文化財になっている。

なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。

また、清洲城の障壁画は総見寺に移されて現存し、現在それは愛知県指定絵画になっている。
※Wikipedia引用

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