岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、徳川家康の生地である。
別名は「龍城」
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。
元は龍頭山の砦として、三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより、つぐより、又は、ちかより)、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城したものである。
当時は「龍燈山城(りゅうとうざんじょう)」と呼んだ。
それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り、改修拡張整備したものが岡崎城である。
龍頭山は元々小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))に渡る改修により、平城となっている。
この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。
本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、菅生川沿いに菅生曲輪があり、それに本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていた。
存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模であったが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となり、城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の建物を失い本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、敷地は岡崎公園として整備され、天守などが復興され市民の憩いの場になっている。
1452年(享徳元年)、または1455年(康正元年)
龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。
1531年(享禄4年)、松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが、家臣の謀反により命を落とす(守山崩れ)
1542年(天文11年)、城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。
当時、櫓や門の屋根も茅葺で、当地は石の産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘ったその土を掻き上げて、芝を植えただけの土塁が巡っていた。
1549年(天文18年)、松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれた。
1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。
1570年(元亀元年)、徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入った。
しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。
以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。
1590年(天正18年)、家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入る。
家康に対する抑えの拠点の一つとして、吉政は城を拡張し強固な石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。
また城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道に整備され、現在の岡崎城の原型を造った。
1602年(慶長7年)、徳川氏譜代の重臣である本多康重が上野国白井より5万石で入城。
以降、徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めている。
1617年(元和3年)、3重の天守が完成する。
●現存建物
北曲輪門が額田郡額田町の民家に、北門(二の門) 西尾市西浅井町の宿縁寺に、念沸堂赤門が市内東阿知和町謁播(あつわ)神社に、それぞれ移築され現存する。
また、市内下青野町慈光寺に太鼓楼を移築したものと伝わる建造物が残る。
●大林寺郭堀跡の石垣の発見
現地を視察した広島大大学院教授の三浦正幸は、大林寺郭堀跡のこの石垣は豊臣秀吉の命令で、1590年(天正18年)に岡崎城主となった田中吉政が築いたと推定している。
野面の乱積みによる犬走りの構造は、1608年(慶長13年)以前の形式のためであるという。
当初、岡崎市教育委員会は江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は1601年(慶長6年)に岡崎城主となった本多康重が、主君家康の命令で整備した堀の一部であるとみていた。
これまで岡崎城の外堀などの本格的な石垣は見つかっていない。
●その他
岡崎城は当初「岡竒城」と記された。
また『三河国名所図会』には「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」と記載されている。
日本さくら名所100選に選ばれた桜の名所であり、名物の八丁味噌を使った田楽料理を食べられる店などがある。
※Wikipedia引用
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