2003/06/03

名古屋城part3



天守
外観復元された大天守天守は本丸の北西隅に位置する。

連結式層塔型で、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、金鯱が載せられた。

大天守は層塔型で55階、地下1階、その高さは55.6m(石垣19.5m、本体36.1m)と、18階建ての高層建築に相当する。


高さでは江戸城や徳川再築の大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積では4,424.5m²に及び、その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が7尺)が敷き詰められていたといわれる。

層塔型であるため、下方に天守の台座となる大入母屋屋根を持たないが、末重部分が平面逓減に関係なく大きく造られる構造は望楼型天守の名残を残す。

大天守の屋根には、より軽量で耐久性のある銅瓦が、2層目以上の全てに葺かれている。

慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみ銅瓦が葺かれていたが、1755年(宝暦5年)に行われた大天守の修復工事の際に、現在の再建天守に見られるような銅瓦葺とされた。

また同時に、雨水による屋根への負担を減らすための銅製の縦樋や、破風を保護するための銅板張のほか、地階に採光を取り入れるための明かり取り窓が、石垣の上に設けられた。

壁面は大砲による攻撃を考慮し、樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。

外面はそれに土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。

また、土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時には土壁を抜いて使用することになっていた。

小天守は22階、地下1階で、大天守への関門の役割があった。

平面は長方形で、外見は千鳥破風一つという簡素な意匠ではあるが、規模は他の城の3層天守よりも大きい。

大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは建てられる計画があったという説がある。

大工頭を担当した中井氏にその説の根拠としている小天守の描かれた指図が残されており、また実際に大天守台西面には開口部を塞いだような跡が見られる。

天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。

推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火して焼失したといわれている。

1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられ、間組により天守の再建が開始された。

この時、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC)造の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)613日、竣工式は1959年(昭和34年)101[8]のこととなった。

再建大天守は57階、内部にはエレベータが設置されている。

外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。

本丸御殿
通常は城主(藩主)が居住する御殿であり、実際に築城直後はそうであったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用とすることになり、以後藩主は二の丸に居住するようになった。

しかし、実際に本丸御殿を使った将軍は秀忠と家光のみで、その後はまったく使われず、尾張藩士により警備と手入れが行われるだけであった。

御成専用とするだけあって、本丸御殿は当時の二条城本丸御殿に匹敵した

南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。

他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。

これら殿舎等は全て第二次世界大戦で失われたが、内部にあった障壁画の一部は取り外され、隅櫓などに収められていたため焼失を免れ、それらは重要文化財に指定され、再建天守に保存されている。

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