●二の丸
二の丸は当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二の丸に将軍の御座所を設けていた。
家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折には二の丸に滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二の丸にあった平岩親吉(1611年(慶長16年)没)の屋敷を改修して、1618年(元和4年)二の丸御殿とした。
それ以後、二の丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。
本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。
その面積は、本丸・西丸・御深井丸の3つを合わせたものに相当した。
北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは、二の丸庭園からの景観との関係があったと思われる。
西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三の丸と連絡していた。
この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二の丸の外周は基本的に土塀で囲まれていた。
二の丸御殿は二の丸の北側に位置し、南側に馬場があった。
二の丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。
御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)が建ち、西面と東面は土塀を廻していた。
黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二の丸庭園があった。
この二の丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。
初期はチャイナ風庭園だったが、後に純和風回遊式庭園となった。
現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。
その他の二の丸内の建築物は全て取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。
馬場跡には一時期、名古屋大学本部の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。
また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。
●西丸
西丸は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。
南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建て廻し、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。
郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
西丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1910年(明治43年)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。
現在の正門が、これである。
現在の西丸には、名古屋城管理事務所と天然記念物カヤの木がある。
●御深井丸
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西丸とも狭い通路で繋がっていた。
櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓(西北隅櫓)が現存している。
3層3階のその規模は、弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。
1611年(慶長16年)に清洲城天守、または小天守を移築したものと伝えられているため、清洲櫓とも呼ばれている。
解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっているため、実際に清洲城から移築されてきた可能性もある。
戌亥隅櫓(西北隅櫓)は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっているが、抜本的対策がないままとなっている。
御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。
また御深井丸には「乃木倉庫」と呼ばれる、明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が、現在でも残っている。
名古屋市内に現存する最古の煉瓦作りと言われる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。
乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたと言われる。
1997年(平成9年)、国の登録有形文化財に登録された。
その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。
●三の丸
三の丸は、現在の名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域と、ほぼ一致する広大な敷地にあった。
郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。
門は5つあり、西に巾下御門(埋門)、南面西側に御園(みその)御門、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。
それぞれに桝形を持っていた。
門付近は石垣だったが、その他は土居となっていた。
三の丸内の建造物は全て取り壊されているが、一宮市の妙興寺総門が清水御門を移築したものであるらしい。
名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。
明治以降は官庁街として発展した。
また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された。
現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎が建てられ、愛知県行政の中枢地域である。
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