●立地
名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。
この場所は、北に濃尾平野を一望の下に監視できる軍事的な要地にあたる。
築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。
また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。
●縄張
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純な造りである。
したがって、姫路城のような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者には好まれず、ある軍学者は「縄張宜しからず」と酷評した。
しかし、現代の城郭研究者からは、名古屋城が築城された江戸時代初期は、攻城戦術・技術が成熟しきっていた時期であり、その時点で徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城を、あえてこのような縄張にしたことは考慮すべきことである。
当時の名古屋城の築城思想が、篭城戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、あるべき篭城戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、縄張の良否を簡単に断言することはできない、という意見が見られる。
構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。
さらに南から東にかけて三の丸が囲む。
西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。
南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
その外側には総構え、または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。
西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積を持つはずだったが、大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。
但し、外郭の一部である木曾川に御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。
●本丸
本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。
門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。
殆どの櫓や塀は白漆喰を塗籠めた壁面であったが、本丸の北面のみ下見板が張られていた。
本丸の3つの虎口のうち、南(西丸側)の大手口と東(二の丸側)の搦手口の2箇所には、堀の内側に2重の城門で構成される枡形門があり、堀の外側には大きな馬出しを構え、入口を2重に固めていた。
外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた。
馬出しの配置も巧みで、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない構造になっている。
ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。
また外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。
現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。
多聞櫓は長屋状の櫓で奥行は5m強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。
多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の方向から攻撃を受けるような構造になっていた。
現存しているのは南二之門である。
不明御門は埋門形式で非常口として使われていたが、戦災により焼失した。
南御門と東御門は、どちらも桝形門を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。
他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。
まず馬出しへの土橋を渡り、石塁に突き当たり横に折れ、本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。
なお、現在は空堀となっている本丸をめぐる内堀には、鹿が放されている。
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