2006/12/16

プッチーニ『トスカ』(2)

 


プッチーニは大変な勉強家であった事は、その音楽に如実に現われていると言って過言ではない。  実際、プッチーニのオペラの歴史は、まさに研究の歴史と言っても良いくらいで、非常に様々に新しい試みにチャレンジし続けた人で、その範囲の広さはオペラ史の中でも屈指と言っても良いのではないか、と思われるほどだ。

 

同時代のフランスの作曲家マスネの『マノン』に刺激を受け、同じテーマの『マノン・レスコー』(Manon Lescaut)で成功を収めると、続けて『ラ・ボエーム』(La Boheme=「Boheme」とは「ボヘミアン」のフランス語読み、「La」は「le」、「les」などとともに英語の「The」に相当する定冠詞)、さらに『トスカ』(Tosca)といった作品によって、あれよあれよという間に確固たる名声を築き上げて行く事となった。

 

同じイタリアの大先輩ヴェルディの時代は、貴族社会や神話或いはシェークスピアに代表される、古典文学などの格調高さをテーマにしたオペラが主流だった。ところが身近な一般社会に物語のテーマを求め、独特の詩的な情緒を醸し出しながら、可憐なヒロインの生き様を描き出すのがプッチーニの真骨頂であり、それが時代のニーズに見事にマッチしたとも言えるだろう。

 

ここまでで既に、世界的な地位を確立していたプッチーニだったが、その勢いと探究心は止まるところを知らず、どういうわけか遂に日本にのめり込む事になる。芸術家にはありがちな性質なのだろうが、一旦興味を示した対象は徹底的に研究し尽くすのがプッチーニであり、それはかの有名な傑作『蝶々夫人(Madama Butterfly)』の全編に渡る、日本情緒に溢れたあの美しい旋律が物語っている通りである。この『蝶々夫人』は、前2作の『ラ・ボエーム』と『トスカ』とともに「プッチーニの三大オペラ」と並び称される傑作として今でも語られるほどだが、プッチーニのあくなき創作意欲と異国文化への探究心は、まだまだ衰えるところを知らなかった。

 

そして「東洋のジパング」の次に、プッチーニが食指を伸ばしたのは「自由の天地」アメリカだ。  最初に『西部の娘』という作品を発表して好評を得ると、返す刀で『外套』、『ジャンニ・スキッキ』(Gianni Schicchi)、『修道女アンジェリーカ』という、それぞれまったく異なる個性に溢れた「アメリカ三部作」を同時に初演にかけるという、離れ業を演じてみせたのである。

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