鎌倉宮
鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市にある神社である。護良親王(もりながしんのう)を祭神とする。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には、当初より入っていない単立神社。別名
大塔宮(おおとうのみや)。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。6月14日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。
本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている。「鎌倉覧勝考」によれば、上段は入り口から6尺ばかりの深さで2間四方余あり、下段はさらに7、8尺下って9尺四方あり、周囲は赤い土であるといい、さらに、「太平記」に「建武元年五月二日大塔宮を足利直義うけ取鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参らせける」とあり、土の牢とは記されておらず、薬師堂谷の御所または牢の御所と書いているものもあり、土籠は塗りごめた土蔵であり、四面を禁錮して入れ置いたのであるから、牢の御所と称したにすぎないという。
瑞泉寺
瑞泉寺(ずいせんじ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある臨済宗円覚寺派の寺院。山号は錦屏山(きんぺいさん)。本尊は釈迦如来で、開基は二階堂道蘊である。鎌倉随一の花の寺、紅葉の名所としても知られている。
鎌倉宮の脇をさらに山に向かって登ると、ある静かな寺である。寺のある一帯は、紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸(やと)に位置している。境内は季節ごとに様々な花で彩られ、梅、つつじ、牡丹、マンサクなど、一年中花の絶えることがない。特にスイセンが有名な「花の寺」として知られている。本堂裏の庭園は夢窓疎石による岩盤を削って作られた禅宗様庭園で、書院庭園の起源となった。荒廃していたのを後に発掘復元した。また、背後の山頂には徧界一覧亭と呼ばれる景勝地があったが、現在は入ることができない。
瑞泉寺の総門脇より入る山道は、瑞泉寺の裏山を通って、建長寺、今泉方面へ出ることのできる天園ハイキングコースの一部となっている。瑞泉寺の裏山では、得宗最後の北条高時の首塚伝説を残す「首やぐら」と呼ばれるやぐら群がある。
歴史
鎌倉幕府の重臣であった二階堂道蘊が嘉暦2年(1327年)、夢窓疎石を開山として創建した寺で、当初は瑞泉院と号した。足利尊氏の四男で、初代鎌倉公方の足利基氏は夢窓疎石に帰依して当寺を中興し、寺号を瑞泉寺と改めた。以後、鎌倉公方足利家の菩提寺となっている。禅寺として、鎌倉五山に次ぐ十刹(じっせつ)の筆頭格の扱いを受け、以後、夢窓派の拠点として重きをなしたが、公方家4代足利持氏による永享の乱で衰亡した。
瑞泉寺は、文学や学問とゆかりの深い寺でもある。鎌倉時代には五山文学の拠点として栄え、近世には徳川光圀が自身の鎌倉旅行を『新編鎌倉志』として編纂をさせたという。境内には、久米正雄の墓、高浜虚子、久保田万太郎、吉野秀雄、大宅壮一、山崎方代、吉田松陰などの碑がある。現在の住職は歌人の大下一真である。
伽藍
境内は、「瑞泉寺境内」として、1971年(昭和46年)11月8日、国の史跡に指定された。庭園および錦屏山上の一覧亭にいたる登坂路は、旧態を良好に保存している。
伽藍を構成する建造物としては、総門、山門、仏殿、書院、客殿、地蔵堂、開山堂などがあるが、いずれも、ほとんど大正以降の再建である。
文化財
木造夢窓国師坐像(重文):南北朝期の作品。
千手観音像(市重要文化財):どこも苦地蔵。もと扇ガ谷の地蔵堂にあった地蔵菩薩像。昔、堂守が貧しさゆえに逃げ出そうとしたところに、この地蔵が堂守の夢枕に立ち、「どこも苦、どこも苦(苦しいのはどこも同じ)」と言ったという伝承がある。
瑞泉寺庭園(名勝):夢窓疎石の作庭による方丈書院の庭園。長らく埋もれていたものを、古図面と発掘調査の結果に基づいて昭和45年(1970年)、ほぼ創建当初の地割にしたがい復原したもの。凝灰岩の岩盤を掘り込んだ、大胆な造形が見どころとされている。鎌倉にのこる鎌倉時代の唯一の庭園として貴重である。
この寺は臨済宗円覚寺派。夢想疎石が、ここを禅院相応の勝地として選び嘉暦二年(1327)に建立した寺。山号の錦屏山は、紅葉谷を囲む三方の山が秋になると山が紅葉し、寺の背後に錦の屏風のように広がることから名付けられた。初代鎌倉公方・足利基氏(足利尊氏の4男)が中興した。足利基氏は夢想疎石に帰依し、瑞泉寺は基氏以降、鎌倉公方代々の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇った寺であった。仏殿の背後には後醍醐天皇や足利尊氏に帰依された夢想疎石の作と伝えられる岩盤を削って池を配した簡素な庭園がある。
夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺の庭園も、後に作っている。庭は、中腹の鎌倉石の岩盤に庭の約束事である滝、池、中島等の全てを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流す貯水池までも刻んだ、岩庭と呼ぶに相応しい庭園である。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されている。また花の寺としても親しまれている。本尊は釈迦牟尼仏
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