狸穴の地名の由来については諸説あるが、この地に生息していた猯(まみ=アナグマ)にちなんで『まみあな』という地名がついたのだが、後に狸の字と混同されてしまい、狸穴(まみあな)と書かれるようになったとする説が有力である。
長い坂下に雌狸の棲む大きな洞穴があったのが、地名の起こりとされる。寛永21年(1644年)には、将軍・徳川家光がこの穴の視察を命じたという話も残っている。
住居表示に関する法律が成立した1962年(昭和37年)以降、港区においても新たな街画が設定され、それまでの歴史ある町名が次々と消滅した。1978年(昭和53年)には、町名変更の実施率が97.4%に達していた[6]。この際に最後まで残ったのが麻布狸穴町と麻布永坂町であり、これら2町の名称は現在まで存続することとなった。
出典Wikipedia
『尾張屋版江戸切絵図 目黒白金辺図』には、幼稚舎から東へ200メートル程の場所に「狸蕎麦」という記述がある。ここに今でも「狸橋」という古川に架かる橋があるが、一時は福澤先生が所有していた。今ここに「狸橋の由来」という碑が立ち、「むかし、橋の南西にそば屋があって子どもを背負い手拭をかぶったおかみさんにそばを売ると、そのお金が、翌朝は木の葉になったといいます。麻布七ふしぎの一つで、狸そばと呼んだのが、地名から橋の名になりました。ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚があったからともいっています。」と書かれている。
≪麻布十番から、ちょっと奥に入った元麻布の旧宮村町一帯は、古い民家を改造した店や酒林を吊るした店など隠れ家的な飲み屋が点在していて、しっぽりとした時間を過ごしたい時にはもってこいの場所である。この旧宮村町から、旧一本松へ上がる坂を狸坂という。現在の元麻布2丁目と、3丁目の間に位置している。
麻布区史によれば「暗闇坂の南、一本松町との境をなす坂、一に旭坂とも云ふ。昔時古狸が出没して、人を化かして困つたと云ふ」との事である。
≪なお狸坂があれば狐坂もあり、狸坂の西側に位置している。先程の『麻布区史』によれば「長玄寺前の坂、一に大隈坂と称す。此の方は狐の縄張りで、古狐が毎夜女に化けたと云ふ」との事。狸と狐は麻布の地でお互いに縄張り争いをしながら、人を化かし合っていたようだ≫
≪昔、この辺りは藪下と呼ばれていて、大正初期まではとても寂しい場所だったらしい。なお狐坂の場所については2つほど説があり、どちらが正しいのか判らない≫
≪この地区は、起伏に富んだ複雑な地形ゆえに坂道が多い。坂道には一本松坂、暗闇坂、けやき坂、三年坂、仙台坂、狸坂、鳥居坂、南部坂、北条坂など名前が付けられている事が多い。麻布台から西麻布へ下る斜面には、狸穴町という変わった名前の町があって、その町境の道が狸穴坂である。マミとは雌のタヌキやムササビを言うそうで、坂の下に巣穴があったと伝えられている。
戦後間もないころまで、東京の区部でもタヌキやイタチが珍しくなかったそうだから、地名になるとはよほど大きな巣だったのだろう。あるいは道標にあるように採掘の跡なのかも知れないが、今は狸穴の名が残るばかりである≫
ポリネシア語による解釈
麻布は、山手台地南東部と古川沿いの低地の地区で、明治11(1878)年に東京府麻布区として発足し、明治22年に東京市に編入されました。古くは「阿佐布」などと記し、その土地に生えていた麻を布に織ったから・・・とされます。 ロシア大使館の辺りは、もと麻布狸穴町で「まみ(雌狸、むささび、あなぐまの類)の穴」が坂下にあったからとされます。
この「あざぶ」、「まみあな」は、マオリ語の「アタ・プ」、ATA-PU (ata=gently.clearly,openly;pu=heap,bundle)、「開けた高台」
「マ・アミ・ハ(ン)ガ」、MA-AMI-HANGA(ma=white,clean;ami=gather,collect;hanga=make,work,thing,people)
「人や物が集まつている、清らかな(場所)」(「ハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化し、H音が脱落して、「アナ」となった)の転訛と解します。
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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